山入城(やまいり)
 別称  : 国安城、高館
 分類  : 山城
 築城者: 西野温通か
 遺構  : 曲輪、櫓台、堀、土塁
 交通  : JR水郡線常陸太田駅からバスに乗り、
      「河原橋」下車徒歩15分


       <沿革>
           常陸守護佐竹氏の有力分家山入氏の居城として知られる。山入氏は、佐竹貞義の七男
          師義が14世紀半ばに足利尊氏から久慈郡山入に所領を与えられたことに始まるとされる。
          ただし、歴代当主が「山入氏」を自称した事実はないとされ、師義の系統については「山入
          佐竹氏」とするのが正しいとする説もある。
           山入城については、師義の山入入部に先立ち、延元年間(1336〜40)に西野民部大夫
          温通によって築かれたともいわれる。ただし、西野氏の出自や温通の実在も含め、確証は
          ない。
           応永十四年(1407)、宗家当主佐竹義盛が男子なく没すると、関東管領山内上杉憲定の
          次男義憲(後の義人)が、義盛の婿養子となって家督を継いだ。師義の子与義をはじめ、
          佐竹一族の多くがこれに不満を抱き、同二十三年(1416)に上杉禅秀の乱が勃発すると、
          山入氏は禅秀に加担して宗家に反旗を翻した。同二十五年(1418)、山入城は義憲軍に
          包囲され、与義は降伏した。
           しかし、与義はその後も将軍直属の京都扶持衆となって幕府から常陸守護に任じられ、
          宗家・鎌倉公方ラインと対立を続けた。応永二十九年(1422)、与義は鎌倉公方足利持氏
          によって追い詰められ、自害を余儀なくされた。
           与義の跡は、長男義郷・次男祐義と続いた。祐義も、鎌倉府との対立から幕府によって
          常陸守護に任じられ、宗家への対抗心を隠さなかった。この間、佐竹義人は嫡男義俊に
          家督を譲っていたが、やがて次男実定を偏愛するようになったことから内紛へと発展して
          いた。享徳元年(1452)、祐義は実定を支持して義俊・義治父子を太田城から追い出した。
          太田城には実定を置き、祐義自身は山入城に留まったとみられるが、詳細は不明である。
          寛正六年(1465)に実定が死去すると、応仁元年(1567)に義俊が実定の子義定を駆逐
          して太田城を奪還した。
           祐義の跡を継いだ子の義知は、文明十年(1478)に宗家の久米城を攻め落とし、城主
          であった義治の子義武を討ち取った。しかし、ほどなく岩城氏の援軍を受けた義治に奪還
          され、義知自身も戦死した。山入氏の家督は義知の弟義真、その子義藤と受け継がれた。
           延徳二年(1490)に義治が没して嫡男義舜が宗家を継いだが、若年であったことから、
          これを好機とみた義藤・氏義父子が再び太田城を襲って奪取した。山入城には、山入氏
          に与した義俊の弟天神林義成の子義益が入った。
           山入氏は太田城に居城して最盛期を迎えたが、明応元年(1492)に義藤が病没すると、
          宗家方の切り崩しにより徐々に勢力を削がれていった。文亀二年(1502)の金砂山城の
          戦いで一度は義舜を追い詰めたものの、反撃に遭って敗退し、山入氏の劣勢は決定的
          となった。永正元年(1504)、氏義・義盛父子は太田城に籠城したが、敗れて捕えられ、
          斬首された。山入城も攻め落とされ、ついに山入氏は滅亡した。与義以来100年近くに
          及んだ一連の佐竹宗家と山入氏の争いは、山入の乱ないし山入一揆と呼ばれる。
           かつては、山入城は山入氏を運命を共にしたとみられていたが、今日では発掘調査の
          結果、その後も宗家の詰城として改修・使用されていたものと考えられている。廃城は、
          遅くとも慶長七年(1602)に佐竹氏が出羽秋田に転封したときと思われる。


       <手記>
           山入城は、中世佐竹宗家の居城太田城の1つ西側を流れる、山田川の中流域に位置
          しています。さらに川を遡ると、佐竹氏が源頼朝に抵抗した際に立てこもった金砂城が
          あり、周辺が同氏にとって重要な意味をもつ土地であることがうかがえます。
           要害山と呼ばれる比高130mほどの城山へは、麓から舗装されて日の浅い感じの立派
          な車道が伸びています。九十九折れのこの道は、途中が段々畑として整備されている
          ように見えるのですが、車道の規模に比べてそこまできちんと土地利用されているよう
          には見受けられず、なぜこんな道路が作られているのかはちょっと謎です。城跡のため
          というわけでもないようで、登りきってもはっきりした駐車スペースはありません。大型の
          車だと、Uターンが大変だと思うのでご注意ください。
           車道の終点からいよいよ山林に入ると、ゆずの畑を抜けて案内板に突き当たります。
          ゆず畑一帯もすでに主城域内のようですが、畑地整備でいくらか人の手が入っている
          ようで必ずしも旧状ははっきりしません。案内板の裏手の曲輪は付け根が堀切と土橋で
          見事に断絶されていて、山入城で最初に出会う大きな遺構となります。
           堀切を渡ると、一二三段の腰曲輪を抜けて主郭へと至ります。主郭は樹木が整理され
          ていて、山田川流域の景色も見渡せます。なんといっても主郭の奥に櫓台が付属して
          いるのがポイントで、発掘調査によって実際に重層建築があったと推定されています。
          これすなわち、山入城が山入氏滅亡後も使用されていたことの重要な傍証とみられて
          います。主郭背後にある2条の堀切も見どころです。
           と、ここまでが従来の山入城の概要でしたが、近年1つ東隣の峰にも大規模な遺構群
          があることが明らかとなったそうです。日吉神社を先端とするこの東遺構群へ行くには、
          ゆず畑を抜けた案内板まで戻り、向かって右手に下る道を進みます。すると、主城域と
          東遺構群の間の鞍部に到着します。そこから数段の小さな腰曲輪を登ると、東遺構群
          の主郭に出ます。そこから先は細尾根なので、藪林ではありますが迷うことはなく日吉
          神社まで行けるでしょう。曲輪の削平は必ずしもはっきりしませんが、途中には4条もの
          堀切や張り出し状の土塁があり、よくこれほどの遺構が眠ったままになっていたものだ
          と逆に感じ入ってしまいました。先入観や予断を以て城跡を訪ねることをいかに戒める
          か、改めて考えさせられました。
           おそらく東遺構群も、山入氏滅亡後に佐竹宗家によって拡張された部分だと思われ
          ます。したがって山入氏時代の規模については、現状からははっきりしたことはわかり
          ません。ただ、山入氏との100年弱にも及ぶ内部抗争が、佐竹氏の戦国大名化と勢力
          拡大の足枷となり、豊臣秀吉による小田原の役まで常陸の支配権を確立できなかった
          遠因となったことは、間違いないでしょう。それほどの内乱の原点となった城と見ると、
          なかなかに感慨もひとしおです。

           
 久米城物見台から山入城を望む。
主郭のようす。 
奥に見えるのが櫓台。 
 櫓台から主郭を俯瞰。
主郭背後の堀切1条目。 
 同じく2条目。
主郭下の腰曲輪から主郭土塁を見上げる。 
 主郭下の腰曲輪。
案内板背後の曲輪付け根の堀切と土橋。 
 案内板背後の曲輪のようす。
主城域南端付近のゆず畑。 
 東遺構群主郭の土塁。
同上。 
 東遺構群主郭のようす。
東遺構群の堀切。 
 東遺構群の張り出し状土塁。
同じく堀切。 
 同上。
同上。 
 東遺構群先端の日吉神社。
 神社境内はぎりぎり城外か。


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