水戸城(みと) | |
別称 : 馬場城 | |
分類 : 平山城 | |
築城者: 馬場資幹 | |
遺構 : 門、土塁、堀 | |
交通 : JR水戸駅徒歩5分 | |
<沿革> 平国香の次男繁盛にはじまる常陸平氏の後裔吉田家幹の子資幹が、水戸城のある丘に 馬場城を築いて馬場氏を称した。常陸平氏の嫡流は、家幹の又従兄弟にあたる多気義幹 が継いでいたが、義幹は建久四年(1193)に八田知家の讒言によって改易され、その所領 は資幹に与えられた。従来の通説では、このとき常陸平氏が代々継承してきた常陸大掾の 職も義幹から資幹に移され、同氏惣領の地位が馬場氏(吉田氏)へ移行したとされていた。 しかし、常陸平氏が大掾職を世襲した事実はこれまでのところ確認されておらず、今日では 源頼朝が同氏を掌握するため、資幹を常陸平氏の惣領として新たに常陸大掾に任じたもの とする説が有力である。いずれにせよ、馬場資幹が常陸の名族大掾氏の祖であるという点 には変わりない。馬場城がいつごろから水戸城と呼ばれるようになったのかは定かでない。 ここでは、以下水戸城に統一して記述する。 応永三十三年(1426)、大掾満幹が鹿島社の青屋祭を執り行うために常陸府中へ出かけ た隙をつき、河和田城主江戸通房が水戸城を奪取した。常陸江戸氏は藤原秀郷流那珂氏 の後裔で、秩父平氏流の武蔵江戸氏とは別族である。この事件は、翌三十四年(1427)の 出来事とする説もある。以後、水戸城は江戸氏の居城となった。 江戸氏は常陸守護佐竹氏に従いつつも、独自の地位を築いて勢力を拡大した。天正十八 年(1590)の小田原の役に際し、江戸重通は豊臣秀吉のもとへ参陣しなかった。そのため、 江戸氏や大掾氏の所領も合わせた常陸54万石は佐竹氏に安堵された。重道が小田原へ 赴かなかったのは、後北条氏からはたらきかけがあったからとも、大掾氏とお互いに牽制し あっていたからともいわれる。佐竹義重・義宣父子は重通に対し江戸城退去を要求したが、 重通がこれを拒否したため、同年十二月に武力で城を攻め落とした。重通は義兄結城晴朝 を頼って落ち延び、佐竹父子は太田城から水戸城へ移って居城とした。城名が改められた のは、佐竹氏時代のことともいわれる。 それまでの城の中心は、今日水戸第一高校の立つ台地東端付近にあり、内城と呼ばれ ていた。義宣は、内城に対し宿城と呼ばれていた水戸第三高校付近に本丸を移し、内城は 古実城と称されるようになった。大手も東から西へと付け替えられ、近世水戸城の骨格が 整えられた。 慶長五年(1600)の関ヶ原の戦いに際し、義宣は会津征伐には参加したものの、その後 は水戸城に引き返してどっちつかずの態度に終始した。同七年(1602)、佐竹家は出羽国 秋田郡20万石へ懲罰的に減転封させられ、代わりに徳川家康の五男武田(松平)信吉が 15万石で水戸城主となった。このとき、当初は館林城主で徳川四天王の1人榊原康政が 候補として挙げられたが、康政は水戸では江戸まで3日を要し、西国での変事に際し先鋒 を務められないとして辞退したともいわれる。 翌八年(1603)、信吉は若くして病没し、家康十男の頼宣が満1歳にして水戸20万石を 領することになった。ただし本人は水戸に赴くことなく、同十四年(1609)に駿府50万石へ 移った。跡には頼宣の同母弟頼房が25万石で封じられた。頼房も、元和五年(1619)まで 水戸城に足を踏み入れることはなかった。その後も、御三家の1つ水戸徳川家は基本的に 江戸定府となり、藩主が帰領することは稀であった。そうした特殊事情もあってか、水戸城 は将軍に次ぐ家格の大名居城としては、異様なほど質素なままに留め置かれた。それまで の本丸を二の丸に、古実城を本丸に改めたほかは、縄張りも佐竹氏時代をほぼ踏襲して いた。石垣は用いず、天守も上げられず、3層5階の三階櫓を二の丸に設けてその代用と した。 幕末の元治元年(1864)には、天狗党の乱に際して水戸城を占拠した諸生党と天狗党の 間で戦闘があり、諸生党が勝利した。明治元年(1868)十月、今度は諸生党が水戸入城を 図って三の丸の弘道館に拠り、籠城する水戸藩兵や天狗党残党と激しい攻防戦となった。 諸生党は城を落とすことができず敗退し、城内の多くの建物が焼失した。三階櫓は残って いたが、昭和二十年(1945)八月二日の水戸空襲により焼亡した。 <手記> 水戸城は、那珂川と桜川に挟まれた細長い舌状台地の先端を利用した城です。桜川は 城の南西に千波湖を形成し、そのほとりには日本三名園の1つ偕楽園があります。地図上 から判断して、当時はおそらく三方を河川と湿地帯に囲まれていたものと推刷されます。 立地や縄張りは至って中世的なのですが、それでもこの城が、平安末期から幕末までと 日本の城郭史上稀にみる長期間にわたって重要視され続けたのは、霞ヶ浦以北の常陸 国内の南北移動において、水戸がクリティカルな要衝だったからでしょう。 JR水戸駅からまっすぐ北上すれば、道はそのまま二の丸と三の丸の間の堀底道となり ます。三の丸には重要文化財の藩校弘道館があり、その北西の公園入口には北柵御門 や喰違虎口土塁が部分的に復元されています。予算が足りなかったのか、言われないと 気づかないような違和感のある復元の仕方で、個人的にはこれなら地表復元の方が… と思ってしまいました。その西には公館庁や駐車場が寄り集まっていますが、その一角に 伸びる三の丸の空堀は、なかなか規模壮大で見ごたえがあります。 反対側に戻って弘道館正面から橋を渡って二の丸に向かうと、令和二年(2020)に完成 したばかりの復興大手門が現れます。私が訪れたのは偶然にもできたてほやほやのとき で、ピッカピカに輝く楼門を目にすることができました。ただ、門の両脇が瓦を積み上げて 模様を描くデザインに凝ったものだったり、門も白木がまばゆいせいか古代城柵のような 感じに見えたりと、考証がきちんとしているのかちょっと疑問にも思いました。 二の丸は、御殿や三階櫓のある実質的な城の中心ですが、今日では小学校・中学校・ 高校に幼稚園まで立ち並び、いずれも入ることはできません。なかんづく三階櫓跡が高校 のグラウンドになっていて見学不可というのが残念です。申し訳程度に「二の丸展示館」と いうガイダンス施設がありますが、建物としては至ってささやかなものなので、今後の整備 に期待です。また、ちょっとわかりにくいですが中学校の東端から城の北辺へ回り込む道 があり、行きつく先の「二中見晴らし台」からは那珂川の対岸を一望できます。 二の丸からもう1本堀切を渡ると本丸です。この堀切は、下を道路ではなくJR水郡線の 線路が走っています。ローカル線とて列車が通るのは1時間に1〜2本くらいなので、下の 写真のように堀切と列車のツーショットを狙うなら、事前に時刻表を調べておきましょう。 本丸(古実城)は第一高校の敷地となっていて、こちらも通り抜けたり自由に見て回ったり はできません。本丸のさらに先端側には東二の丸がありましたが、同高校のグラウンドと なっているので見学は不可です。その代わり、高校の入口には佐竹氏時代からのものと 伝わる薬医門が移築されています。この門は、以前は八幡町の祇園寺にあったもので、 屋根が寺院調に改められているものの、立派な棟構えは御三家の城門にふさわしい風格 を体現しています。 さて、水戸城は大掾(馬場)資幹の居城として築かれたものですが、大掾氏は13世紀に 石岡城を、14世紀に府中城を築いて居城としたともいわれています。とすると、15世紀に 入って居城の水戸城を江戸氏に奪われたとするのは矛盾が生じます。この点、私見として は、資幹は多気義幹の所領と合わせて馬場(水戸)周辺にとどまらない広大な領地を得た はずで、朝廷の官職に由来する大掾氏を称した以上、石岡の常陸国府周辺に居を構える のが自然であるように思います。なお有力な支城ではあったでしょうが、江戸氏に奪われ た時点では、すでに居城ではなかったと考えています。 |
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復元大手門。 | |
大手門を城内側から。 | |
二の丸と本丸の間の堀切。 | |
二中見晴らし台からの眺望。 | |
本丸と二の丸の間の堀切。 | |
本丸の橋詰門跡。 | |
本丸跡の移築薬医門。 | |
弘道館。 | |
弘道館公園入口の部分復元土塁。 | |
三の丸の空堀。 |