名護屋城(なごや)
 別称  : 垣添城
 分類  : 平山城
 築城者: 名護屋氏
 遺構  : 石垣、天守台、堀、井戸
 交通  : JR唐津線唐津駅よりバス
      「名護屋城博物館入口」バス停下車


       <沿革>
           豊臣秀吉の文禄・慶長の役における拠点として築かれた城として知られているが、もともとこの地
          には、東松浦半島に勢力をもった松浦党波多氏の家臣名護屋(名古屋)氏の居城垣添城があった。
          名護屋氏の出自については詳らかでなく、垣添城がいつごろ築かれたのかも不明である。
           天正十九年(1591)十月、秀吉は翌年にはじまる朝鮮出兵を目指して、垣添城を接収して新城の
          築城を開始した。一帯の領主である波多親(信時)は、名護屋は大軍を置くには不向きであるとして
          反対したために秀吉の不興を買い、後に改易されている。また、垣添城主であった名護屋経述は、
          妹広子を秀吉の側室に差し出した。
           翌文禄元年(1592)四月二十五日に秀吉が名護屋城入りしたことから、わずか6か月で城としての
          体裁を整えたことになる。また、秀吉到着に先立つ同年三月には加藤清正ら第一陣が名護屋浦を
          出航していることから、このときまでには少なくとも軍港部分が完成していたと推測される。
           名護屋はリアス式海岸が連なる東松浦半島の突端に位置し、街道筋からはまったく外れ、地形は
          起伏が激しく、普通に考えれば、信時が苦言を呈したとおり拠点とするには向かない土地であった。
          しかし、秀吉の天下普請はそれまでの常識を凌駕し、瞬く間に日本有数の都市が出現した。「無人
          の、しかもとうてい人の住みがたいところ(ルイス・フロイスの報告書)」であった名護屋は、最盛期に
          は人口十数万を数えたという。だが、僻地ににわかに集結した十万以上の将兵の糊口を満たすのは
          容易ではなく、とりわけ水不足は最後まで解決されることなく、大名諸侯の間での水源をめぐる諍い
          がしばしば生じたといわれる。
           同年夏に秀吉の母大政所が病に臥すと、秀吉は一旦大坂城へ帰還したが、大政所の死去後に
          名護屋城へ戻った。しかし、翌文禄二年(1593)に秀頼が誕生すると、秀吉は再び大坂城へ帰り、
          これ以降名護屋へ赴くことはなかった。秀吉の名護屋在城は、のべ1年2か月ほどであったとされる。
          秀吉の帰坂後、名護屋城とその周辺8万石は寺沢広高に任された。
           秀吉の死により、慶長三年(1598)に朝鮮の役が終結すると、名護屋城は役割を終えた。同七年
          (1602)に広高は唐津城を築いて居城とし、築城には名護屋城の建物の建材が転用されたといわ
          れる。石垣も運ばれたともいわれるが、両城の石垣の石質の違いからこれを否定する向きもある。
          また、唐津築城までの間、名護屋城が広高の居城であったのか、それとも放置されていたのかも
          明らかでない。名護屋城大手門は、奥州伊達政宗の居城仙台城の大手門として移築されたと伝え
          られるが、立証はされていない。
           名護屋城の石垣は、隅石を中心に丁寧にこぼされている。この城破りがいつごろ行われたのかに
          ついては諸説あって定かでない。もっとも有力とみられているのは、寛永十四年(1637)の島原の乱
          の終息後に、一揆によって利用されないよう破壊されたとするものだが、他にも一国一城令を受けて
          のものであるとする説や、朝鮮通信使に再び侵略する意図のないことを示すためであるとする見方
          もある。
          
          
       <手記>
           険しいリアス式海岸の続く東松浦半島のさらに先っちょ、名護屋浦を東に望む半島状の丘陵一帯
          に、名護屋城跡と大名諸侯の陣跡がひしめき合っています。今なお、交通の便が良いとはいえず、
          申し訳ないですが地理上大きな発展は望めない土地といわざるを得ません。この天下の中心からは
          およそ外れた山間に、十数万人の巨大都市を出現させた秀吉の権勢には、訪れてみて改めて驚嘆
          せざるを得ません。
           秀吉がわざわざこの地に拠点を築いたのは、九州本島のなかでもっとも壱岐に近いポイントである
          こと、それはとりもなおさず対馬を経て朝鮮半島にもっとも近いということが唯一無二の理由であると
          思われます。天守台の上からは、遠く壱岐島と思しき島が霞んで見えました。
           現在、名護屋城跡は国特別史跡に指定され、主城域は非常によく整備されています。発掘調査も
          並行して進められているようで、城内のあちらこちらで作業をしているようすが見られます。登城路は
          いくつかありますが、車で訪れるにせよバスで訪れるにせよ、名護屋城博物館のある大手口からの
          訪城がスタンダードとなります。
           名護屋城跡の特徴は、何といっても規則正しく零された石垣でしょう。ほぼすべての石垣が、上辺
          と隅石を中心に徹底的に毀されており、面の長い石垣ではまるで模様を描いたようになっています。
          こうした破壊の仕方は一見儀式的な面が強いように思いますが、石垣の上辺と隅石を取り払うという
          ことは、攻め手に足場を与えることにつながり、城を使用不能にするという実利の面でも理に適った
          方法であると考えられます。
           名護屋は水の手に恵まれなかったということで、城内には井戸が数か所と、水の手曲輪には溜池
          が設けられていたということです。これでも比較的水の手の多い城と思われるのですが、このほかに
          も数か所の井戸が存在し、埋められてしまっているものと考えらえているようです。主城域から道路
          を挟んだ北側の集落の脇には、太閤井戸と呼ばれる石枠と石垣に囲まれた立派な井戸があり、近く
          には台所丸跡が藪に覆われています。
           主城域の東麓には2つの山里丸があり、西側の上山里丸は、広沢の局と改名した名護屋氏の娘
          広子の開いた広沢寺境内となっています。上山里丸と下山里丸の間にある山里口石垣は、城内で
          唯一修復されている石垣です。もともと、この虎口石垣は城内でただ1か所隅石が壊されていない
          部分だったそうで、『城破りの考古学』では何かしらの意味があるのではないかと勘繰っているよう
          です。
           城山に登って一番驚いたのは、城とは関係ないですが、指呼の間に玄海原発を望むことができる
          といことでした。現在は停止中なのでしょうが、もし事故があれば名護屋一帯は間違いなく立ち入り
          禁止区域になります。どこなら建ててもいいという話ではないでしょうが、人里にこんなに近く、しかも
          周囲から原子炉が覗けてしまうというのは、立地としてかなり問題なんじゃないかと思いました。

           
 大手口のようす。
大手口から大手道と東出丸を望む。 
 東出丸のようす。
三の丸から本丸大手門跡を望む。 
 三の丸の井戸跡。
三の丸虎口跡。 
 等間隔に毀された本丸石垣。
隅石を零された本丸石垣。 
 二の丸の建物柱穴群。
 長期使用する予定はなかったためか、掘立式だったようです。
二の丸下の弾正丸の搦手門跡。 
 弾正丸から本丸方面の石垣を望む。
本丸天守台下の遊撃丸。 
 遊撃丸から天守台を望む。
本丸天守台。 
 本丸多聞櫓跡。
 当初は左手玉石部分が本丸の際でしたが、
 右手の舗装部分に本丸が広げられ、櫓が築かれたそうです。 
天守台からの眺望。 
奥に霞んで見えるのは壱岐島か。 
 水の手曲輪跡。
太閤井戸跡。 
 台所丸を望む。
山里口の修復された石垣。 
 広沢寺となっている上山里丸。
おまけ:城跡から玄海原発を望む。 


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