保土原氏館(ほどわらし) | |
別称 : 保土原館 | |
分類 : 平城 | |
築城者: 保土原氏 | |
遺構 : 堀、土塁 | |
交通 : JR東北本線須賀川駅または鏡石駅から バスに乗り、「保土原下」下車徒歩1分 |
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<沿革> 二階堂氏庶流保土原氏の居館とみられる。保土原氏は、『二階堂浜尾系図』によれば 二階堂盛藤の次男藤顕を祖とするとされる。同系図に見える盛藤は須賀川二階堂氏の 祖にあたる人物とみられるが、一次史料等でその名は確認できない。 天正十年(1582)に二階堂行親が急死し、その母で先代盛義の未亡人である大乗院 (阿南の方)が須賀川城主となると、二階堂家中は須田盛秀を中心とする親佐竹派と、 保土原行藤(江南斎)を中心とする親伊達派に分裂した。伊達政宗の伯母でありながら 反伊達派であった大乗院が甥との対決姿勢を顕わにすると、同十七年(1589)の政宗に よる須賀川城攻めに際し、行藤は寝返って伊達勢の先鋒を務めた。 行藤は引き続き伊達氏に仕え、和歌など風流の才を政宗に愛された。翌天正十八年 (1590)の小田原の役によって伊達氏の所領が大きく削られると、行藤も保土原の館を 廃して引き払ったものと推測される。 <手記> 一般に保土原館というと、須賀川市街の須賀川市立博物館の敷地になっている方を 指すので、こちらは弁別のため保土原氏館としています。『日本城郭大系』ではこちらを 保土原館と呼んでいるため、正確には須賀川市内に2つの保土原館があることになると 思われます。 保土原氏の本貫が須賀川市街ではなくこちらであることはほぼ間違いなく、その居館 はどこかと探したところ、目についたのが保土原集落中心部の茂林院です。南辺を除く 境内の三辺に堀や土塁の痕跡が見られ、ここが館跡である蓋然性はかなり高いものと 思われます。 最もはっきりしているのは北辺の堀です。東辺は造成の跡があり、堀状の地形は見ら れるものの、遺構そのままかどうかは少々留保が必要でしょう。西辺は堀底道となって いて、境内側の墓地の縁には、土塁状の土盛り地形も認められます。 保土原行藤は、二階堂ウラギリーズのなかでも中心人物であり、それでいて伊達家中 でも存在感を保つなど、個人的に興味深い武将です。その本貫地の館を自分でアタリを つけて訪ねてみるというのは、なかなか感慨深いものがありました。 |
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茂林院。 | |
付境内北辺の堀跡。 | |
同上。 | |
東辺の堀状地形。 こちらは旧状のままか不明です。 |
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西辺の堀底道。 | |
境内西辺の土塁状地形。 |