堀越御所(ほりごえ) | |
別称 : 堀越公方館、足利政知館 | |
分類 : 平城 | |
築城者: 足利政知 | |
遺構 : なし | |
交通 : 伊豆箱根鉄道韮山駅徒歩15分 | |
<沿革> 室町幕府8代将軍足利義政の兄政知は、幕府と対立する古河公方足利成氏に対する 幕府公認の鎌倉公方として長禄二年(1458)に派遣された。しかし、成氏の勢力が強大 であったために関東入国を果たせず、伊豆国堀越の国清寺などに留まった。 寛正元年(1460)、政知は堀越御所を築いてこれを居所とした。堀越御所は鎌倉時代 の北条氏の屋敷跡を利用したものともいわれるが、実態については未だ明らかでない。 以降、政知は堀越公方ないし堀越御所と尊称されることになった。 応仁の乱前後の政情不安から、政知は幕府から十分な軍事力を得ることができず、 成氏討伐は遅々として進展しなかった。逆に堀越御所が成氏勢の攻撃に晒されること もあったが、伊豆国人衆や駿河守護今川氏の助勢もあり撃退に成功している。 文明十四年(1483)、ついに幕府は成氏と和睦し、政知は伊豆一国の支配者として 両者に認知されることとなったが、延徳三年(1491年)に死去した。 政知には3人の子があったが、次男の清晃は足利義政の養子に出されていた(後の 将軍義澄)。長男で清晃の異父兄茶々丸は、素行不良の廉で廃嫡されており、清晃の 同母弟潤童子が跡を継いだ。しかし、茶々丸は軟禁されていた牢から脱獄して潤童子 とその生母を殺害し、家督を奪った。 茶々丸は奸臣の讒言を信じて重臣を殺害して回るなど暴政を布いたために伊豆国人 の離反を招き、明応二年(1493)の伊勢盛時(北条早雲)の伊豆討ち入りに至ったと される。だが、同年の明応の政変によって清晃が将軍義澄として就任していることから、 伊勢氏の伊豆討ち入りは生母と同母弟を殺害された義澄の上意を受けたものとする説 もある。 伊豆討ち入りによって堀越御所は呆気なく瓦解し、茶々丸は軍記物等では願成就院 で自害したとされる。しかし近年の研究によれば、茶々丸はその後も明応七年(1498) まで伊豆奪還を図って抵抗を続けていたことが明らかとなっている。 いずれにせよ、伊豆へ入った盛時は韮山城を居城としたため、堀越御所はそのまま 廃されたものと推測される。 <手記> 守山の周辺には願成就院や北条氏館跡など鎌倉北条氏ゆかりの史跡が点在して います。その一画、守山の北麓に堀越御所があったとされています。当該区域は「伝 堀越御所跡」として国の史跡にも指定されています。 現地には説明板はありますが、更地と宅地が広がっているのみで史跡としての整備 はされていないようです。遺構もとくにみられず、断片的に行われた発掘調査の結果、 室町期のものと推定される中国製の焼き物が検出されていること他には有力な証拠 はなく、確定というわけではないようです。その他には池や建物、庭石の跡に加えて、 堀状の溝跡が検出されているということです。説明板を見たかぎりでは、更地となって いる池跡が見つかったエリアの東側の、直線状の堀跡が検出されている大字四日市 付近の方が、可能性がやや高いようにも思われます。 |
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伝堀越御所跡説明板。 | |
推定地現況。 |