逆井城(さかさい)
 別称  : 飯沼城
 分類  : 平城
 築城者: 逆井常宗か
 遺構  : 曲輪、堀、土塁、馬出し等
 交通  : 常磐自動車道谷和原ICより車で60分


       <沿革>
           『逆井留系』によれば、小山義政の五男常宗が逆井に入り、逆井氏を称したとされる。
          大宝八幡宮の享徳五年(1456)七月銘の銅鐘にも「逆井尾張守沙弥常宗」の名があり、
          逆井常宗の存在は確実とみられている。逆井城の原型は常宗によって築かれたと推測
          されるが、現在と同じ位置であったかは不明である。
           常宗の孫とされる常繁の代の天文五年(1536)、逆井城は北条氏家臣大道寺駿河守
          (盛昌と考えられている)に攻められた。城は落ちて常繁は戦死し、逆井氏も滅亡したと
          される。
           天正五年(1577)、勢力圏を大幅に拡大した後北条氏は、玉縄城主北条氏繁に命じ、
          逆井城を常陸・下野両国への侵攻拠点として改修させた。以降、逆井城は飯沼城と呼ば
          れるようになったとされる。翌六年(1578)、氏繁は逆井城で病没し、子の氏舜が城主と
          なった。その氏舜も、同八年ないし九年(1580〜81)に死去したとされ、跡を弟の氏勝が
          継いだ。
           天正十八年(1590)の小田原の役で北条氏が滅亡すると、飯沼城も廃城となった。この
          とき、飯沼城で合戦があったか否かは明らかでない。

       <手記>
           逆井城は、かつては北に飯沼、西にその入江である蓮沼を望む湖岸の城でした。両沼
          とも江戸時代に干拓され、一面の田んぼが広がっています。
           現在は、逆井城跡公園として整備されています。この公園は、戦国時代の城郭を本格
          復元した数少ないものの1つであるとともに、中世城郭の復元整備のはしりともいえるもの
          です。昔からぜひとも訪れてみたいと思っていましたが、交通の便のあまりの悪さにこれ
          まで機会がありませんでした。今回でさえ、城跡に興味のない友人に何とかお願いして、
          筑波山から車を走らせてようやく訪城することができました。
           一曲輪の櫓門と、二曲輪南西一帯が発掘調査の結果をもとに木造復元されています。
          とくに、二曲輪南西は他所ではなかなか味わえない戦国の景観を醸し出しており、これを
          見て興奮しない城郭ファンはいないのではないかと思います。なかには、この景観をして
          「やりすぎ」と評する人もいるそうです。しかし、発掘調査のみからの復元には当然限度が
          ある訳で、本当にこの復元が「正確か」どうかは誰にも分かりません。私としては、完成度
          というよりきらびやかさとは程遠い戦国城郭を本格復元しようという心意気の方に感じ入り
          ます。
           駐車場を出ると、筋違橋を経て着到櫓に着きます。この櫓は登ることができます。その先
          には長い塀を伝って井楼櫓がありますが、こちらは登ることができません。二曲輪にはこの
          ほかに、移築した関宿城の薬医門と、堀之内大台城の発掘結果をもとに建築された主殿
          があります。堀之内大台城の主殿が復元されたのは、同時代の規模の似た城郭だからと
          いうことだそうですが、一応同城が築かれたのは逆井城の廃城後なので、ちょっと同時代
          とはいえないように思います。
           二曲輪と一曲輪の間には馬出しがあり、これも発掘をもとに復元したものと思われます。
          この馬出しの裏手には、常繁の妻ないし娘とされる智御前が落城の際に先祖伝来の釣鐘
          をかぶって入水自殺したと伝わる鐘掘池があります。伝承の真偽はともかく、現在も水を
          湛える堀で、城内の重要な水の手であったと推測されます。池の西側からは年代の古い
          堀跡が検出され、逆井氏時代の遺構と推測されています。少なくとも常繁の籠った逆井城
          が同じ位置にあったことが確認されました。
           一曲輪は祠と復元櫓門があるだけで、二曲輪に比べると少々寂しい空間です。この櫓門
          は、検出遺構を守るために実際の柱穴から少しずらして建てられています。櫓門と木橋を
          渡って再び二曲輪に出ると、逆井城址の石碑があります。ここから旧飯沼沿いに東進する
          と、虎口を経て三曲輪の復元井楼櫓に出ます。三曲輪と二曲輪の間の空堀には、横矢が
          いくつかかかっており、後北条氏系の縄張りの息吹を感じることができます。
           全体的には、飯沼と蓮沼の天険を背負っているとはいえ、やや単純な縄張りであるように
          感じました。これは、逆井城(飯沼城)が後北条氏にとって遠征軍の駐屯基地であったため、
          縄張りの複雑さよりも兵の駐屯スペースの確保が重要であったことによるものではないかと
          推測されます。
           また、逆井城をめぐる問題として、常繁が天文五年(1536)に後北条氏に攻められるという
          のは、当時の北条氏の勢力圏から考えて不可能ではないか、というものがあります。たしか
          に、まだ武蔵も掌握していなかった北条氏が逆井に兵を送ることは困難であり、なかんづく
          古河公方の勢力圏を通過しなければなりません。この点については、時期が誤って伝わった
          のではないかとする説があるようです。すなわち、逆井城が大改築される天正五年(1577)
          からさほど遡らない頃のことであり、大道寺駿河守とは盛昌の孫とされる政繁ではないか、
          とするものです。たしかに、政繁も駿河守を名乗っているため可能性はありますが、それだと
          今度は常繁を常宗の孫とすることに年代的な無理が生じます。
           この件に関しては、ほかに確証が出ない以上、推測論の域を越えることはできませんが、
          私個人としては、当時の北条軍が逆井城を攻めることは可能だったのではないかと考えて
          います。というのも、当時の古河公方足利高基は、関東管領上杉氏らとの関係悪化に伴い
          北条氏と接近していました。天文四年(1535)に高基の死によって跡を継いだ晴氏も、小弓
          公方足利義明に対抗するため北条氏との関係を維持し、同七年(1538)の国府台の戦いで、
          協力して義明を討ちました。したがって、常繁が逆井城に攻め滅ぼされたとされる天文五年
          時点では、北条氏と古河公方は良好な関係にあったと考えられます。このことから、たとえば
          常繁が義明方に属するなどしたため、古河公方の要請を受けて、北条氏綱が大道寺盛昌を
          大将に逆井城へ軍勢を派遣した、と考えることもできるのではないかと思います。

           
 筋違橋と着到櫓。
二曲輪南の二重堀。奥はかつて蓮沼でした。 
 二曲輪南西辺の塀と井楼櫓。
二曲輪内に復元された堀之内大台城の主殿。 
 移築された関宿城薬医門。
一曲輪の馬出し。 
 鐘掘池。
一曲輪のようす。 
 城址碑と一曲輪櫓門・木橋。
一曲輪と二曲輪の間の空堀。 
 横矢のかかる二曲輪と三曲輪の間の空堀。


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