欲賀城(ほしか)
 別称  : なし
 分類  : 平城
 築城者: 寺田清信か
 遺構  : 土塁跡、堀跡
 交通  : JR東海道本線守山駅よりバス
       「小津農協前」バス停下車徒歩5分


       <沿革>
           小津小学校の南にある浄光寺は、古くは欲賀寺と呼ばれていた。永和三年(1377)、坂田郡
          箕浦荘より寺田豊前守清信が移住し、欲賀寺公文所の任に就いた。欲賀城は、清信の居城と
          して築かれたものと推測される。
           寺田氏は、もともと山城国久世郡寺田郷の土豪で、弘安五年(1282)に寺田藤内兵衛尉光範
          が箕浦荘の興福寺山門霊仙寺公文所の任に就いた。清信は光範から数えて4代目とされる。
           清信の子清通は、出家して欲賀寺の住職となり、江戸時代に浄光寺と改名した。欲賀城は、
          住職寺田氏の居所であり続けたものと思われる。なお、今も浄光寺の住職は寺田氏の子孫が
          務めている。


       <手記>
           欲賀城は、浄光寺の境内付近にあったものとみられています。浄光寺の南西隅には土塁跡と
          考えられている藪があります。また、寺の裏手には土塁および堀跡のような段差と側溝がみられ
          ます。
           浄光寺北西隅付近にある水度神社は、寺田氏が山城にいたころから崇拝していたものを勧請
          して建てたものと伝えられています。
           浄光寺の北西150mほどのところに、欲賀城畑城と呼ばれる城跡があります。『守山城物語』
          によれば、こちらは本間氏の居城とされています。また、浄光寺の東にも宇野氏の居城とされる
          大林城があります。2つの在地領主の城館に挟まれた寺田氏の欲賀城は、城というより寺院に
          付随する居館といった方が正しいのではないかとも推測されます。

           
 欲賀城址とされる浄光寺。
浄光寺南西隅の藪。土塁跡か。 
 水度神社。
浄光寺裏手のようす。土塁と堀跡か。 


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