細呂木館(ほそろぎ)
 別称  : なし
 分類  : 平山城
 築城者: 細呂木氏か
 遺構  : 曲輪、土塁
 交通  : 北陸自動車道金津ICから車で10分


       <沿革>
           『太平記』の巻十九に、新田義貞が建武五/延元三年(1338)に敗死した後、新田四天王の
          一人・畑時能が「細呂木の辺に城郭を構へ 津葉の五郎が大聖寺の城を攻め落として 国中を
          押領す」とある。この細呂木の城郭を細呂木館に擬定する向きもあるが、有力とみなされては
          いない。
           一般には国人領主の細呂木氏によって築かれたと考えられている。細呂木氏の出自は定か
          でないが、細呂木郷は古くから興福寺大乗院領の河口荘に含まれていた。戦国時代の初め、
          朝倉孝景の横領に悩まされていた大乗院門跡・経覚は本願寺法主蓮如に河口荘内の吉崎
          譲り、細呂木郷の代官に本願寺派・和田本覚寺の蓮光を任じている。本覚寺や藤島超勝寺
          朝倉氏との戦いに敗れて加賀へ逃れた永正三年(1506)前後に、朝倉家臣としての細呂木氏
          成立したとみられるが、確証はない。細呂木館主としては、細呂木治部丞や細呂木薩摩守と
          いった名が伝えられている。
           天正元年(1573)八月の刀根坂の戦いで討ち死にした朝倉方の将の一人として、『信長公記』
          に細呂木治部少輔の名が記されており、当時の細呂木館主かその一族と推察される。その後
          の細呂木館および細呂木氏については不明である。


       <手記>
           細呂木集落南側の丘陵から北西に派生する支尾根に築かれた城です。かつては東側を除く
          三方に、北潟湖やその湿地帯が入り込んでいたものとみられます。峰続きの東側は、堀切跡を
          利用したとみられる切通しとなっています。道幅は狭いのですが、コンパクトな車であれば城内
          に鎮座する春日神社の参道石段前に1台なら駐車可能です。
           峰先側に長方形の主郭があり、神社境内を挟んだ南側にも曲輪らしき削平地がありますが、
          神社の造成でどの程度地形が改変されているのかははっきりしません。主郭は土塁で囲まれ、
          周囲には削り残しの帯曲輪が断片的に取り巻いています。直感的には、比較的古い時期から
          単郭方形の城館が設けられていたのではないかと思われます。他方で、加越国境のかなりの
          要衝であるにもかかわらず、あまり規模の大きな城とはいえないのが意外な感じでした。

           
 南から細呂木城跡を望む。
春日神社。 
 主郭のようす。
主郭南辺の土塁を望む。 
 西辺の土塁。
同じく西辺の土塁と小祠。 
 東辺の土塁と小祠。
主郭の切岸。 
 同じく主郭切岸と帯曲輪。
春日神社南側の曲輪跡。 
 同上。
城地東側の堀切跡とみられる切通し。 


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