払田柵(ほった)
 別称  : なし
 分類  : 平山城
 築城者: 不明
 遺構  : 井戸跡
 交通  : JR大曲駅からバスに乗り、「中払田」
      下車徒歩5分


       <沿革>
           史料にはみられない古代城柵である。1902年ごろ、水田中から200本ほどの柵木が出土
          したが、このときは気に留める者はいなかった。1919年に六郷町長となった小説家の後藤
          宙外が木片に興味を示し、1930年には東北三大地主の一つ・池田家の協力のもと、考古
          学者・上田三平による発掘調査が実施され、ついに古代城柵の存在が明らかとなった。
          翌1931年には、秋田県内初の国史跡に指定されている。
           外柵の角材を年輪測定したところ、延暦二十年(801)ごろの伐採と推定されたことから、
          築城年もほぼ同じころと考えられている。これにより、天平宝字三年(759)に築かれたと
          『続日本紀』に記されている地点不明の雄勝城とする説には、矛盾が生じることとなった。
          後代に雄勝城からさらに北進して移った城柵とする説や、秋田城から国府機能を移転した
          「河辺府」とする説などが呈されているが、いまだ定説をみていない。


       <手記>
           払田柵は、長森と真山という2つの緩やかな独立小丘を利用した古代城柵です。長森の
          麓を内郭の柵と城門が囲い、その外側には西側の真山も包摂したより広い外柵が巡って
          いたそうです。真山には戦国時代に堀田城が築かれていましたが、両者に関連はなく、
          城柵跡とも認識されていなかったでしょう。
           長森は東西に2つのピークをもつミカヅキモ状の丘で、その鞍部に政庁などが建てられて
          いました。東のピーク付近にも建物群があったそうで、西のピークは石切場など職工関係
          の区画だったようです。建造物として復元されているのは外柵南門のみですが、建物跡の
          礎石箇所は地表復元され、内柵の城門跡はモニュメント的に展示されていました。また、
          南辺の内柵と外柵の間には当時小川が蛇行していたようで、その一部が再現されて橋も
          架けられていました。
           このように、水田地帯のど真ん中に浮かぶ古代城柵がこれほど良好に発掘・保存された
          のは、一つには東北三大地主という余裕のある旧家の敷地内にあったからと思われます。
          見学の前には、もちろんガイダンス施設で予備知識を入手しておきましょう。
           払田柵の位置付けについては今も諸説ありますが、仙北の中心的な政庁であったことは
          間違いないでしょう。ただし、その傍証として多賀城より規模が大きいというのはやや腑に
          落ちません。たしかに面積は広いかもしれませんが、楕円形に木柵で囲まれていただけの
          払田柵と、瓦土塀や朱塗りの城門で彩られた唐式方形の多賀城では、技術と格式に歴然
          とした差があります。この点は秋田城や胆沢城などと比べても同じで、払田柵はどちらかと
          いえば政務より軍事に重きを置いた過渡期な城柵であり、それがゆえに同時代の史料にも
          登場しないのではないかというのが、個人的な見解です。

           
 南東から払田柵跡を望む。
復元外柵南門付近のようす。 
 復元外柵南門。
復元された蛇行する小川。 
 小川を渡る復元木橋。
 修復中のようです。
内柵南門前の建物跡。 
 内柵南門跡。
内柵南門跡越しに外柵南門までを俯瞰。 
 政庁西前殿跡。
政庁主殿跡。 
 東建物群の模擬建造物。
東建物群跡のようす。 
 内柵北門跡から外柵北門跡までを俯瞰。
長森西側の丘の石切場跡。 
 長森北側中腹の井戸跡「ホイドスズ」。
古代の旧道跡。 
 内柵西門跡。 


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