船木城(ふなき) | |
別称 : なし | |
分類 : 平山城 | |
築城者: 佐々木師綱 | |
遺構 : 堀、曲輪跡 | |
交通 : JR湖西線安曇川駅よりバス 「南船木交差点」バス停下車徒歩10分 |
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<沿革> 高島佐々木泰氏の子師綱によって築かれたとされる。師綱は、はじめ高島郡平井村に 住していたため平井氏を称していた。師綱の子時綱は足利尊氏に従い、康安元/正平 十六年(1361)の仁木義長攻めなどで功を挙げたという。時綱が能登守を称していたため、 平井氏は高島宗家直近の分家として、能登家(能登氏)とも呼ばれた。その後、平井氏は いわゆる高島七頭の1つとして勢力をもった。 元亀三年(1572)、織田信長の高島攻略により、船木城は他の高島の諸城と同様信長 に屈した。この際に城は廃されたようで、翌天正元年(1573)には平井氏子孫(元城主と いうことか)によって城跡に願船寺が建立された。 <手記> 船木城は、安曇川河口の三角州内部にある船木集落の西の外れに位置しています。 近江の在地領主の城の多くが集落の中に築かれているので、船木城や南西3kmほどに ある小川城の立地は珍しい部類といえます。また、船木城は大溝城を除く高島の中世 諸城で、最も湖岸に近い位置にあります。おそらく、船木には琵琶湖の湖港があったもの と推測されます。このことからも、船木城と平井氏の重要性がうかがえます。 城跡は、上述のとおり願船寺となっています。寺域をぐるりと一段低い田が囲っていて、 一見して堀跡と分かります。境内も一段高い方形の区画となっていて、主郭であることが 容易に判別できます。石碑や案内などはありませんが、全体像がわりと分かりやすい、 言い換えれば比較的残存状況の良い城跡といえるでしょう。 願船寺の北東には、鬼門除けの諏訪神社があります。諏訪神社は、明応六年(1497) に平井氏によって造営されたといわれています。したがってこのころまでには、船木城も 整備されていたものと推測されます。 ちなみに平井氏といえば、娘が浅井長政の最初の正室となった、六角氏家老の平井 定武が知られています。ただ、こちらの平井氏は同じ佐々木氏ではあるものの、まったく の別系統のようです。 |
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諏訪神社境内より船木城址(願船寺)を望む。 | |
願船寺。 | |
願船寺境内(主郭)と周囲の水田(堀跡)。 |