大溝城(おおみぞ)
 別称  : 高島城、大溝陣屋
 分類  : 平城
 築城者: 津田信澄
 遺構  : 天守台、石垣
 交通  : JR湖西線近江高島駅徒歩5分


       <沿革>
           天正六年(1578)、織田信長の弟信勝(信行)の子津田信澄によって築かれた。それまで
          高島郡は、旧浅井家臣の磯野員昌が治めていた。員昌は信澄を養子に迎えて家督を譲る
          よう迫られたが、これを拒否したために追放されたといわれる。高島郡は信澄に与えられ、
          信澄は大溝城を築いて員昌の居城新庄城から移った。縄張りは、明智光秀が担当したと
          いわれる。
           天正十年(1582)に本能寺の変が起こると、信澄は光秀の娘を室にしていたことから内通
          を疑われ、従兄弟の織田信孝や丹羽長秀に殺害れた。同年の清洲会議の結果、高島郡は
          長秀の所領となり、大溝には代官として上田重安(宗箇)が送り込まれた。重安は、信澄の
          首級を挙げた1人といわれる。
           翌天正十一年(1583)の賤ヶ岳の戦いの後、長秀は高島郡に代わり越前国や加賀国に
          加増され、大溝城には加藤光泰が入った。同十三年(1585)、光泰は大垣城へ転封となり、
          代わって生駒親正が大溝城主となったが、親正も翌十四年(1586)に神戸城へ移り、高島
          郡は豊臣秀吉の直轄領となった。代官は芦浦観音寺が務めた。
           天正十五年(1587)に京極高次が大溝城1万石の大名となったが、同十八年(1590)には
          織田三四郎(織田氏の一族と思われるが、系譜不明)が城主となり、後に再び秀吉直轄領
          となった。このときの代官は吉田修理とされる。
           慶長二十年(1615)の大坂夏の陣までは豊臣氏の、同氏滅亡後は徳川氏の所領だった
          ものと推測されている。元和五年(1619)には分部光信が伊勢上野城から2万石で移され、
          大溝藩が成立した。光信は、本丸と二の丸の建物を撤去し、三の丸のみを大溝陣屋として
          利用した。分部家は、一度の転封もなく12代続いて明治維新を迎えた。ちなみに、最後の
          藩主分部光謙は、もっとも近年まで生きながらえた藩主ともいわれる。ただし、光謙が就任
          したのは版籍奉還後であり、厳密には藩主ではなく藩知事であった。したがって今日では、
          光謙を「最後の殿様」とは認めない風潮が強い。


       <手記>
           大溝城は、琵琶湖とつながった乙女ヶ池に面した水城です。城の南で、街道は山と湖に
          挟まれた湖岸の隘路となり、南から高島郡へ入るには大溝城下を必ず通らなければなり
          ません。また、城のすぐ北には湖港大溝港があり、要衝中の要衝に築かれています。
           城跡は高島総合病院となっています。三の丸に病棟が建てられていて、二の丸は駐車
          場となっています。遺構は、本丸の天守台石垣を残すのみです。本丸をぐるりと囲っていた
          乙女ヶ池も、西半分が埋まっていてススキ野原となっています。この天守台は上下2段と
          なっていて、その積み方は古風な野面積みです。おそらく、信澄時代からあまり手が加え
          られていないものと思われ、貴重な遺構といえるでしょう。逆にいうと、織田氏時代に築か
          れた近世城郭の代表選手の1つが、天守台しか残っていないというのはとても残念に感じ
          ました。

           
 大溝城天守台石垣と城址碑。
天守台北東隅の石垣。 
 天守台下段のようす。
北側から天守台を望む。 
手前の薄野原はかつて本丸を囲っていた乙女ヶ池の跡。 


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