伊庭城(いば)
 別称  : 伊庭古城、伊庭陣屋
 分類  : 平城
 築城者: 伊庭実高
 遺構  : なし
 交通  : JR東海道本線能登川駅徒歩30分


       <沿革>
           佐々木氏宗家経方の一子行実の四男実高(現地説明版では高実)が、建久年間(1190〜99)に
          伊庭を領して伊庭氏を名乗った。伊庭城がいつ築かれたのかは定かでない。
           伊庭郷は「伊庭千軒」と呼ばれた豊な土地で、伊庭氏は近江守護六角佐々木氏家中で守護代も
          務める実力をもっていた。応仁元年(1467)の応仁の乱に伴う観音寺城の攻防戦では、伊庭行隆
          が六角高頼に属して活躍した。
           しかし文亀二年(1502)、伊庭行隆・貞隆(父子か)は高頼に対して反乱を起こした。このときは
          和議が成立したが、永正十一年(1514)に水茎岡山城主で伊庭氏被官の九里信隆が高頼に謀殺
          されると、伊庭貞隆・貞説父子は信隆の子浄椿と結んで六角氏に再び抗した。伊庭氏らは江北の
          戦国大名浅井亮政の支援を受け、同十三年(1516)には観音寺城を攻撃したが、失敗している。
          同十七年(1520)、高頼の子定頼の軍勢に攻められた伊庭父子は九里氏とともに水茎岡山城に
          立て籠もったが、敗れて没落した。
           その後、九里・伊庭両氏の残党は、九里三重郎を旗頭にまたも水茎岡山城に籠もったが、大永
          五年(1525)の黒橋の戦いで定頼に敗れた。伊庭氏のその後は詳らかでないが、少なくとも宗家
          は没落し、伊庭郷を逐われたものと思われる。伊庭城の廃城は、遅くとも黒橋の戦いまで、早けれ
          ば永正十七年のことと推察される。
           江戸時代に入った永禄十一年(1698)、旗本三枝氏が伊庭領主となり、伊庭城跡の地に陣屋を
          構えた。


       <手記>
           伊庭は、観音寺城のある繖山山系と琵琶湖に挟まれた水郷地帯です。今も鯉が悠々と泳ぐ清ら
          かな水路が、集落内を網の目のように走っています。そんなのどかな集落の一角に、「謹節館」が
          あり、ここが伊庭城址とされています。この建物は、現地の説明版を素直に読むなら、陣屋の建物
          の一部を利用したもののようです。
           『淡海の城』では、謹節館の東に「伊庭古城」の存在を記していますが、両者の区別については
          分かりません。一帯には、城としての遺構は見受けられません。
           一時は六角氏に匹敵するほどの権勢を誇った伊庭氏ですが、今ではその繁栄をうかがい知るの
          は困難です。
           
        
 伊庭城址(謹節館)。
伊庭城址を囲む水路。 


BACK