一乗谷山城(いちじょうだに)
 別称  : 一乗谷城、一乗山城
 分類  : 山城
 築城者: 朝倉氏
 遺構  : 曲輪、堀、土塁、虎口
 交通  : JR越美北線一乗谷駅徒歩60分


       <沿革>
           戦国大名朝倉氏の本拠地一乗谷の詰城である。軍記物である『朝倉始末記』では、
          文明三年(1471)に7代朝倉孝景(英林)が居所を一乗谷に移したとあるが、今日では
          3代貞景の代の15世紀前半には、すでに一乗谷を根拠としていたと考えられている。
          山上の詰城がいつごろ築かれたのかは詳らかでない。
           天正元年(1573)八月十三日、浅井氏の小谷城救援に出陣した朝倉軍は、大嶽砦
          の失陥などを受けて撤退を図ったが、織田信長軍に追撃を受けて潰走した(刀根坂の
          戦い)。同月十五日、朝倉義景はほうほうの体で一乗谷に帰還したが、留守の将兵は
          大半が逃散しており、翌十六日に大野郡へ逃れた。同月十八日、織田軍は一乗谷に
          攻め入って火を放った。一乗谷山城も、さしたる抵抗もなく落城・炎上したものと推測
          される。


       <手記>
           一乗谷の朝倉氏遺跡は、近年観光スポットとして歴史に詳しくない人にも知られる
          ようになりました。ですが山城となると、登山目的でない限りは、なかなか訪れる人も
          いないのではないでしょうか。なんといっても、麓からの比高400mという山城としても
          異例の高さが、行ってみようという動機をくじきます。ちなみに、呼称は一乗谷山城の
          ほかに一乗山城、一乗谷城などいくつかあり、当時の呼び方は不明のようですが、
          福井県のHPにも載っている「一乗谷山城」が、一乗谷に対する山城(詰城)という意
          からも妥当と考えました。
           登山ルートはいくつかあるようですが、現地でもおすすめされている通り、八幡神社
          からの馬出ルートが最も確実で登りやすいように思います。このルートでは、途中で
          支城の小見放城にも立ち寄れます。ただ、小見放城からさらに比高300mを延々登る
          ので、精神力と体力、そして時間には余裕をもって訪ねましょう。
           一乗谷山城は、千畳敷・一の丸・二の丸・三の丸と、4つのエリアに大別できます。
          千畳敷エリアには、名前の通り山上居館的な広い空間のほか、観音屋敷や赤洲神社
          といった区画があります。観音屋敷の先にある宿直(とのい)は、城内で唯一眺望が
          開けている場所で、ここからは遠く日本海や三国港方面まで望めます。また、宿直の
          出入口は特徴的な喰い違い虎口となっていて、こちらも必見です。宿直の1段上には
          月見櫓と呼ばれる小ピークがあり、こちらを展望台とできればさらに素晴らしいと思う
          のですが、残念ながら現状は藪でした。
           千畳敷から先へ行くには、裏手の土塁を上がって尾根筋に出ます。この土塁外側
          下には、少々分かりにくいですが畝状竪堀が見られます。さらに、もう1つ隣にも土塁
          と虎口があり、そこを抜けるとより大きな畝状竪堀が現れます。
           ここから尾根筋に登っていくると、一の丸・二の丸・三の丸と続きます。一乗谷山城
          は曲輪名が通常とは逆に、奥から三・二・一と下がっていきますが、これが当時から
          の呼び方なのか、理由がよく分かりません。一・二・三の曲輪群の間は、堀切で切断
          されていて、ところどころにやはり畝状竪堀が見られます。気になるのは二の丸から
          堀切を隔てて西に延びる尾根で、基本的に自然地形ですが、現地説明板によれば
          伏兵穴群があるとのこと。たしかに、それと思しき窪みがいくつかありましたが、これ
          を掘るなら普通に曲輪形成した方が早いような気もするので、本当に遺構なのかは
          留保が必要なようにも感じました。
           本丸にあたる三の丸は、細長くフラットな頂部を堀切で前後2つに切り分けています。
          その奥側が狭義の本丸とみられ、最高所は周囲に石の散乱した塚となっています。
          これが櫓台なのかどうかは、ぱっと見ではよくわかりません。
           ちなみに、ここで城内や登山道の手入れを行っているという地元の方に会いました。
          こんな高い山にしょっちゅう登って整備している方がいらっしゃるとは、ありがたい話
          です。お伺いしたところ、宿直までは景色を求めて登山客もそれなりに来るものの、
          三の丸まで巡る人は滅多にいないそうです。これだけの遺構が見やすく整備されて
          いても、通常の登山者には興味の外というのは、ちょっと哀しくもあります
           一乗谷山城の特徴は、堅城かどうかというよりも、なによりその異様な高さにあると
          いえるでしょう。あまりに高すぎて、おそらく麓の一乗谷の町からはそもそも視認でき
          なかったはずです。
           なぜこんな高所に城を築いたかについては、あくまで私見ですが、宿直から見えた
          海に関係があるように思います。一乗谷の前を流れる足羽川には河港があり、三国
          を介して海運交易が行われていたと推定されています。一乗谷山城から海が見える
          ということは、逆に日本海や九頭竜川を航行する船からも、遠目に城が望めていたと
          考えられます。一乗谷の町場自体は、上下の木戸を抜けるまでは目にできないので、
          山城は谷の繁栄を代弁するランドマークとしての機能ももっていたのではないか、と
          推察しています。
           そこから敷衍して、一乗谷へ移った当初の朝倉氏の詰城は小見放城やその隣の
          小城であり、勢力を拡大するに及んで、一乗谷山城を新たに築いたのではないかと
          いうのが、個人的な見解です。そしてその移行時期こそが、『朝倉始末記』にある7代
          孝景のころではないでしょうか。当時、朝倉氏は長禄合戦や応仁の乱を経て大きく
          発展し、一乗谷は「北の京」とまで呼ばれる繁栄期に差しかかっていました。あくまで
          状況証拠のみの推論ですが、ストーリーとしては十分可能性のある話だと思います。

           
 馬出ルート登山口のようす。
 段々の耕地跡は館など施設跡か。
同上。 
 堀底道状の登山路。
城内唯一の水源とされる不動清水。 
 千畳敷跡。
観音屋敷跡。 
 宿直入口の喰い違い虎口。
宿直跡。 
 宿直跡からの眺望。
 右手奥に日本海が望めます。
千畳敷背後の土塁と虎口。 
 土塁外側のようす。
土塁外側下の畝状竪堀。 
 もう1つ奥側の土塁と虎口。
虎口外側の畝状竪堀。 
 赤洲神社跡。
月見櫓跡。 
 一の丸脇の竪堀ないし登城路跡。
一の丸の土塁とその脇の空堀。 
 一の丸のようす。
一の丸背後1条目の堀切。 
 2条目の堀切。
 左奥に1条目も見えています。
二の丸下の曲輪。 
 二の丸のようす。
二の丸下の畝状竪堀。 
 二の丸西の堀切。
堀切の向こう峰の、伏兵穴と思われる窪み。 
 伏兵穴群があるという尾根のようす。
二の丸背後の堀切。 
 三の丸の入口。
三の丸前部のようす。 
 三の丸を前後に分ける堀切。
堀底。 
 三の丸後部のようす。
城内最高所の塚状地形。 
 同上。
一乗谷から山城を望む。 
城域は画面奥の鉄塔のさらに50mほど 
上なので、見えていないと思われます。 


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