井田主馬ヶ城(いだしゅめ) | |
別称 : 主馬城 | |
分類 : 山城 | |
築城者: 斎藤主馬か | |
遺構 : 曲輪、堀、土塁、虎口 | |
交通 : JR高山本線越中八尾駅徒歩50分 | |
<沿革> 越中婦負郡南部の有力国人斎藤氏によって築かれたとされる。越中斎藤氏は、貞治六/ 正平二十二年(1367)に藤原利仁の後裔と称する斎藤左衛門大夫入道常喜が北朝方として 楡原保を与えられたことに始まるとされる(『聞名寺文書』)。江戸時代後期の地誌『三州志』 には、城名の由来とみられる斎藤主馬ないし斎藤左源太が居城したとする伝承が記載され ているが、築城年や詳しい築城の経緯は不明である。また、北麓の井田館が平時の居館で 主馬ヶ城は詰城とする説も有力だが、確証はない。 天文二十一年(1552)、井田城主斎藤(飯田)利忠は上杉謙信に従属する願海寺城主寺崎 盛永に攻められ、城生城へ逃れたとされる(天神林の戦い)。すなわち、井田主馬ヶ城はこの ときまでには築かれ、斎藤氏が拠っていたことになる。城生城主は斎藤伯耆守利基とみられ、 越中斎藤氏の本家であるが、利忠との関係は詳らかでない。 この後の井田主馬ヶ城の動静は不明だが、現存する遺構から越後上杉氏の改修を受けて いるものと推察されている。 <手記> 井田主馬ヶ城は西、麓を洗う井田川が山間から富山平野へ出る喉口部に位置しています。 山容自体はさして要害地形とはいえず、井田館の背後に設けられた詰城という推察は容易に 成り立つものでしょう。 上の地図にもある西側中腹の林道を南から進んだのですが、この道は途中で藪に埋もれて しまいました。少し引き返して南東の尾根を直登したのですが、尾根筋には明確な土塁線が 城域境の堀切までずっと続いていました。途中には土塁下にやや広い削平地も見られました が、これらが城の遺構なのかどうかは不明です。同様の土塁線は南尾根にもあります。 一番の見どころは、なんといっても主郭南東の畝状竪堀群を伴う横堀でしょう。山が緩やか な所為もあってか竪堀群にはほとんど傾斜がなく、横堀とほぼ同じ目線にまるで土壙のように 連なっている景観はとても印象的でした。他方で曲輪形成自体はさほど明瞭ではなく、ほかに 技巧性が認められるのは北端の枡形状の虎口くらいと思われます。 この虎口付近で、向こうから登ってきた男性と鉢合わせてお互いにびっくり!なんでも北麓 からの道を整備していたそうですが、他方で城跡については名前を聞いたことがある程度だと いうので、虎口や空堀や主郭の櫓台などを簡単に説明しました。そんなわけで、今は北麓から 登った方がスムースかもしれません。 畝状竪堀群は上杉氏の城に多くみられる技術ですが、同じ斎藤氏の拠点である城生城には 用いられていません。斎藤氏の後に城生城を改修した佐々氏や前田氏がわざわざ毀したとは 考えにくいため、やはり城生城には畝状竪堀はなかったのでしょう。また、主馬ヶ城は技巧的 ではあるものの各曲輪の削平は甘く、規模も大きいとはいえません。 これらの点から、寺崎氏が攻め落とした後になんらかの理由で上杉氏が接収し、陣城として 改修されたものと拝察されます。そして、織田氏麾下の佐々氏が越中を制すると、顧みられる ことなく打ち捨てられたのではないでしょうか。 |
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井田館跡から主馬ヶ城を望む。 | |
南東尾根の土塁線。 | |
同上。 | |
土塁線下の削平地。 | |
土塁線の突き当りの堀切。 | |
堀切脇の犬走り状テラスと張り出し土塁(左側)。 | |
テラス脇の畝状竪堀。 | |
主郭南の塚状土塁をもつ曲輪。 | |
同曲輪から南尾根に伸びる土塁線。 | |
同上。 | |
主郭南東下の横堀。 | |
横堀に付属する畝状竪堀群。 | |
同上。 | |
主郭下段の虎口。 | |
主郭上段から下段を俯瞰。 | |
主郭上段と櫓台状土塁。 | |
主郭北側の空間。 甘い削平が目につきます。 |
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北端の枡形状虎口。 | |
虎口脇の横堀。 |