福地氏城(ふくちし)
 別称  : 福地城、城の腰城
 分類  : 平山城
 築城者: 福地氏
 遺構  : 土塁、石垣、堀、曲輪、虎口、井戸跡
 交通  : JR関西本線・草津線柘植駅徒歩25分


       <沿革>
           土豪福地氏の居城である。福地氏は伊勢平氏流柘植氏の分流とされ、『満済准后日記』の
          正長二年(1429)二月の条に、「柘植三方」と呼ばれる柘植の有力な3家に日置氏・北村氏と
          並んで挙げられている。詰城がいつごろ築かれたのかは定かでない。
           天正九年(1581)、福地伊予守宗隆は河合村の耳須弥次郎具明と共に織田信長に伺候し、
          伊賀討ち入りの際の道案内を申し出た。『信長公記』には、同年九月の第二次天正伊賀の乱
          に先立ち、福地氏から人質を取ったうえ、福地城に不破彦三(直光)を御警固として置いたと
          ある。翌十月初頭までに伊賀が平定されると、福地氏は伊賀の有力者の1人となったと推測
          される。
           翌天正十年(1582)に本能寺の変が起きると、伊賀衆の恨みを買っていた福地氏は国内に
          留まることができず逃亡し、福地城も廃されたものとみられる。


       <手記>
           今日、福地城跡は芭蕉公園となっていて、主郭には「芭蕉翁生誕之地碑」が建っています。
          これは、松尾氏が福地氏の後裔を自称していて、芭蕉自身も上柘植村で誕生したとする説が
          あるためです。ただ、かつては芭蕉が柘植のある伊賀町と上野市の上野城下どちらで生まれ
          たかは観光行政上、重要な問題だったと思われますが、今ではどちらも伊賀市なので、「芭蕉
          のふるさと伊賀市」でひとくくりにできているようです。
           福地城の特徴といえば、伊賀の中世城郭では珍しく主郭虎口に穴太積みの石垣が用いられ
          ている点でしょう。あまりに立派で、私などは後世の造作ではないかと疑ったくらいです。当時
          は、この上に櫓門が乗っていた可能性が指摘されています。そうだとすれば、織田氏に従った
          福地氏により、伊賀平定から翌年六月の本能寺の変までの間に築かれたものでしょう。石垣
          は主郭下の虎口にも見られ、かなり大規模な改修が行われていたことがうかがえます。
           主郭下には複数の出丸があり、さらにその麓には、土塁や堀で囲まれた伊賀式の居館部が
          あるそうです。ただ、このときは同行者がいたのでそちらまでは行きませんでした。福地城跡は
          公園化されていて駐車場も完備されているうえ、名阪国道のすぐ脇にあって訪ねやすいので、
          機会があればまた立ち寄ってみたいと思います。

 駐車場脇の説明板。
城址碑。 
 駐車場付近からの眺望。
主郭虎口の石垣。 
 同上。
主郭のようす。 
 同上。
石組みの残る井戸跡。 
 主郭土塁。
主郭土塁の上。 
 主郭下の虎口。
主郭下の削平地。 
 登城路脇の土塁。


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