上野城(うえの)
 別称  : 伊賀上野城、白鳳城、仁木氏館、平楽寺
 分類  : 平山城
 築城者: 筒井定次
 遺構  : 石垣、堀、門跡
 交通  : 伊賀鉄道上野市駅徒歩5分


       <沿革>
           伊賀上野城の建つ丘には、かつて平楽寺や守護大名に仁木氏の居館があったとされる。
          平楽寺は平清盛によって建立されたとされ、伊賀国有数の大寺院に発展していた。一方の
          伊賀仁木氏は、足利一門仁木義長が南北朝時代に伊賀守護に補任されたことにはじまり、
          その庶流が在地の管理にあたったとみられている。ただし、仁木氏の伊賀守護職は断続的
          なもので、影響力も限定的であった。
           大永年間(1521〜28)ごろの伊賀守護仁木兵部少輔は、支配の及ばない北部へ出兵した
          が、土豪柘植氏に敗れた。逆に、反守護の国人らによって守護館を攻撃され、仁木一族は
          国外へ逃亡した。
           永禄年間(1557〜68)に、経緯は不明だが伊賀守護として仁木長政の名が現れるように
          なる。同十二年(1569)には、「仁木」氏が織田信長に臣従している。長政は以前の守護館
          に居住していたと思われるが、確証はない。
           天正六年(1578)、信長の次男信雄が伊賀国の掌握を目論んで丸山城の築城を開始する
          と、伊賀郷士11名が平楽寺に集まり、完成前に攻撃することを決議した。不意を突いて襲撃
          された織田勢は未完成の丸山城を放棄して逃亡し、信雄の伊賀平定は頓挫した。このころ
          には、平楽寺の隣にいるはずの長政の動静は不明となっている。
           天正九年(1581)に信長主導で伊賀が平定されると、信雄家臣滝川雄利が平楽寺の跡に
          砦を築いたとも、長政の弟とされる仁木友梅に平楽寺が与えられたともいわれる。あるいは
          両者で平楽寺跡と守護館跡を分け合ったとも考えられるが、まもなく友梅は医者として活動
          するようになっている。
           天正十三年(1585)、大和郡山城主筒井定次が豊臣秀吉より伊賀国他20万石での転封
          を命じられた。定次は平楽寺と守護館跡の双方の丘を取り立て、『伊水温故』によれば文禄
          年中(1592〜96)までに3層の天守をもつ城郭を築き上げた。これが、近世(伊賀)上野城の
          はじまりとされる。
           慶長五年(1600)の関ヶ原の戦いに際し、定次は徳川家康の上杉征伐に従軍していた。
          上野城の留守は兄の筒井玄蕃が預かっていたが、西軍の高槻城主新庄直頼・直定父子に
          攻め寄せられ、玄蕃は城を捨てて高野山に逃れた。定次は家康の許しを得て急遽帰国し、
          兵をまとめて上野城を奪還した。
           戦後、筒井家は所領を安堵されたが、慶長十三年(1608)に重臣中坊秀祐が定次の行状
          を家康に訴え、同年六月に不行跡として改易を命ぜられた。同年八月、今治藩主藤堂高虎
          が伊賀一国および伊勢・伊予計22万石に加増された。
           高虎は築城の名手として知られるうえに家康の信任が厚く、大坂の豊臣家に備えるという
          役割を担っていた。その期待に応えるべく、高虎は上野城の改修に着手し、本丸を西へ拡張
          して高石垣を構築し、大手を南へ移した。新たに設けた天守台には5層の天守を建設しよう
          としたが、慶長十七年(1612)九月の大嵐で倒壊し、約180名もの大工や人夫などが犠牲と
          なった。
           慶長二十年(1615)に大坂夏の陣で豊臣家が滅ぶと、上野城の要塞としての役割は消失
          し、天守が再建されることもなかった。津城を藩府とした藤堂家は一国一城令の例外として
          上野城の存続も認められ、元和五年(1619)に高虎の弟高清が城代に任じられた。高清が
          没すると、藤堂采女元則が後継となった。元則は伊賀千賀地城主服部半蔵則直の子で、
          増田長盛に仕えたが、関ヶ原の戦いで増田家が改易されると、高虎に召し抱えられ藤堂姓
          を与えられた。徳川家臣の服部半蔵正成も千賀地氏流を称しているため、同族の可能性も
          あるが、双方とも詳しい系譜は定かでない。
           以後、元則の子孫は代々采女を称し、藤堂釆女家が上野城代を世襲して明治を迎えた。
          ちなみに、今日の模擬天守は昭和十年(1935)に実業家の川崎克によって建設されたもの
          である。


       <手記>
           子供のころに家族旅行で立ち寄って以来の伊賀上野城でしたが、30年経ってやおら3か月
          で2度も訪れる機会がありました。下の写真は、その2回のものが混在しています。かつては
          普通に「日本一の高石垣」を謳っていた本丸石垣は、測り方などいろいろな要因があったの
          でしょう、「日本一・二の高さで有名な高石垣」と控えめになっていました笑
           上野城の大きな特徴は、天守台のある区画よりも東側の城代屋敷の方が高所に位置して
          いる点にあります。これが、西方の大坂を意識したものなのか、高虎お得意の家康への阿り
          なのかは分かりません。子供のときは模擬天守にばかり目が行っていましたが、今回は城代
          屋敷の奥にある、最高所の筒井天守跡を訪ねられたのが一番の収穫でした。もっとも、実際
          に天守が建っていたと思われるあたりは水道施設になっているようですが。入口に案内など
          はなく、城代屋敷跡の東辺の竹藪に、ひっそりと階段があるのを見つけましょう。

 模擬天守。
同上。 
 本丸の高石垣。
高石垣の隅からカメラだけ手を伸ばして撮影。 
 本丸南西隅からの眺望。
本丸の高石垣を外側から。 
 本丸南西隅の高石垣。
城代屋敷台所門跡。 
 城代屋敷跡。
同上。 
 筒井天守跡の入口。
筒井天守跡の石碑。 
 蛇谷堀跡。
本丸大手跡。 
 本丸南辺の石垣。


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