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飯羽間城(いいばま) |
| 別称 : 飯間城 | |
| 分類 : 平山城 | |
| 築城者: 飯羽間遠山氏 | |
| 遺構 : 曲輪跡、切岸 | |
| 交通 : 明智鉄道岩村駅から車で5分 | |
<沿革> 遠山氏の宗家にあたる岩村遠山氏の遠山景明の子・六郎景義が、遠山七頭の一つ飯羽間(飯間) 遠山家を興したとされる。『遠山来由記』に「景明の建長五年(1253)より」という記述があり、事実と とすれば鎌倉時代中期に分家したことになる。飯羽間城がいつ築かれたのかは定かでない。 戦国時代後期、飯羽間遠山氏の遠山友勝は逸早く織田氏と誼を通じていたとみられ、永禄十二年 (1569)に同じ七頭の苗木遠山氏当主・遠山直廉が戦傷死すると、織田信長の命でその跡を継いだ (直廉の死亡年には諸説あり)。飯羽間城は友勝の子・友忠に譲られ、友忠もまた飯羽間城を長男・ 友信に任せて直廉の築いた阿寺城へ移った(明照遠山氏)。しかし、元亀元〜三年(1570〜72)に 友勝が没すると、友忠は三男で嫡子の友政と共に苗木城に入っている。元亀三年には、岩村城が 武田氏の手に落ちて遠山本家が滅亡し、飯羽間城は織田方の最前線の一つとなった。 天正二年(1574)、武田勝頼が岩村城を拠点に3万の大軍を以て東濃へ侵攻し、飯羽間城以外の いわゆる「遠山十八支城(子城)」を攻め落とした。飯羽間城はよく粘り、武田重臣のなかには撤退を 主張する声も少なくなかったともされるが、勝頼は力攻めを継続してついに落城させた(飯羽間城の 戦い)。このとき、『甲陽軍鑑』によれば飯羽間右衛門信次が土蔵で生け捕りにされている。他方で、 『信長公記』には飯羽間落城に先立つ明知城の攻防で、飯羽間右衛門尉が城内で謀反を起こした ために落城したとする記述がある。この右衛門と右衛門尉、そして友信と信次について、同一人物 とする説と別人とする見方がある。別人とするならば右衛門尉は友信を指すと考えられ、同一とする なら、右衛門尉は存在しないか友信の一族重臣と推測される。 いずれにせよこの戦いで飯羽間遠山氏は滅び、飯羽間城もそのまま廃されたとされる。ちなみに 生け捕られた右衛門は、その武勇を買われて武田家臣となったが、天正十年(1582)に武田氏が 滅ぶと織田氏の追捕を受けて、子と共に処刑されたと伝えられる。また、友政の子孫は苗木藩主と して明治維新まで続いた。 <手記> 飯羽間城は、飯羽間川の上流部に突き出た細峰を利用した城です。なぜか最寄りではない明智 鉄道飯羽間駅側から県道406号を遡ると、目の前に大きく「飯羽間城址」と書かれた看板が現れる ので、迷うことはありません。 南西麓の主城域背後の小谷戸から登城しますが、この谷戸の上部はほぼ自然地形の鞍部で、 一番の急所であるはずなのに堀切となっていないのがとても気になります。城内は畑地として利用 されていたようで、どこまでが城の遺構か分かりにくくなっていますが、主郭と前方の腰曲輪までは 読み取れます。主郭には説明板の他、「飯羽間城諸将士三界萬霊塔」と彫られた供養塔が建って いました。 現地の説明板にもある通り、いったん登城口へ下りて西へ歩くと、尾根筋を切断する堀切状の谷 があります。あるいは人工地形で城域の最後尾とも思われますが、小谷戸との間の「向山」と呼ば れる丘は藪に覆われていて、やはり全容については掴みづらい部分があります。 |
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| 飯羽間城跡先端部のようす。 | |
| 南から城山を望む。 | |
| 登城口を望む。 | |
| 登城口の谷戸上部のようす。 堀切になっていないのが不思議です。 |
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| 主郭南西隅のようす。 | |
| 主郭南辺切岸か。 | |
| 主郭のようす。 | |
| 主郭の慰霊碑。 | |
| 同じく説明板。 | |
| 主郭前方の曲輪跡を俯瞰。 | |
| 向山西側の堀切状の谷地形。 | |