苗木城(なえぎ)
 別称  : 霞ヶ城、赤壁城、高森城
 分類  : 山城
 築城者: 遠山景村ないし遠山直廉
 遺構  : 曲輪、石垣、天守台、井戸、礎石など
 交通  : JR中央本線中津川駅よりバス
       「苗木」下車徒歩30分


       <沿革>
           南北朝時代に遠山景村が築いたのがはじまりとも、戦国時代に遠山景友(惣領家岩村遠山氏)の
          子直廉によるともいわれる。直廉は岩村遠山氏・明知遠山氏とともに「三遠山」と呼ばれ、恵那地方
          に勢力を張った。
           直廉の死後、苗木遠山氏には一族の飯羽間遠山氏から遠山友勝が養子として入った。そのころ
          東濃は織田氏と武田氏の境界として緊張状態が続き、岩村城は元亀三年(1572)に武田氏の武将
          秋山虎繁(信友)によって落とされた。友勝の子の友忠は、岩村落城後も織田方につき、苗木城は
          織田氏の対武田最前線の城として機能した。
           天正三年(1575)の長篠の戦い後に織田勢が岩村城を奪回すると、苗木遠山氏は新たに岩村に
          入った川尻秀隆の指揮下に組み込まれた。同十年(1582)に武田氏が滅亡すると、秀隆は甲斐に
          移封となり、岩村城には森成利(乱丸)が封じられたが(異説あり)、同様に遠山氏が森氏の指揮下
          に入ったかは定かでない。
           同年の本能寺の変で織田信長や乱丸が横死すると、友忠・友政父子は徳川家康に接近したが、
          羽柴秀吉に追従した美濃金山(兼山)城主で乱丸の兄の森長可に攻め込まれた。翌天正十一年
          (1583)、苗木城は落城し、遠山父子は家康を頼って落ちのびた。苗木城には長可の弟の忠政と、
          秀隆の子秀長が城代として入った。慶長四年(1599)に忠政が信濃海津城へ転封となると、秀長が
          そのまま苗木1万石の城主となった。
           翌慶長五年(1600)の関ヶ原の戦いで秀長は西軍につき、伏見城の戦いで戦死または本戦後に
          自刃したとされ、この間に旧領復帰を目論んだ友政(友忠はすでに死去)が苗木城を奪取した。この
          功により、友政は旧領苗木に1万余石を与えられた。その後、明治維新によって廃城となるまで、
          遠山氏12代の居城として存続した。
           なお、現在の遺構がいつの時代に築かれたものかは詳らかではないが、森氏から川尻氏を経て
          再び遠山氏が入る間に、その骨格は完成していたと考えられている。雅称の霞ヶ城とは、霧ヶ城の
          別称をもつ岩村城と対を成したものである。また、同じく赤壁城は、秀長が城壁を白く塗り篭めようと
          したところ木曽川の竜神が暴れて塗ることができず、やむなく赤い壁にしたという伝説にちなむもの
          である(実際には塗篭の予算上の問題だったとみられている)。


       <手記>
           苗木遠山資料館の建つ大手口から登り、ほどなく視界が開けたと同時に、思わずひとりで歓声を
          上げてしまいました。目の前に広がったのは、なんとも幻想的でファンタジーな風景。忽然と浮かぶ
          岩塊と石垣の山は、まるでミニチュア版のラピュタやモン・サン=ミシェルを見ているようでした。
           苗木城の一番の見どころは、小さいながらも岩肌にしがみつくようなそこかしこの石垣と、山上から
          の絶景です。大手から入ってまず目につく大櫓跡の石垣に登り、それから本丸を目指しました。本丸
          の天守台には、巨大な一枚岩がそのまま使われています。天守の柱組みだけが当時の位置に復元
          され、その上に床板だけが敷かれて展望台となっています。なにせ岩を削っただけの柱台なので、
          柱の何本かは柱台からはみ出していて、登るのにひとかけらの勇気を必要とします。展望台階段脇
          の注意書きにも、「ヘタをすると木曽川の断崖へ真っ逆さまなので、展望台の隅のほうには行かない
          ように」という旨が、やんわりと書いてありました。
           しかし、そのぶん展望台からの景色は絶景の一言につきます。眼下には木曽川の渓谷、遠くには
          恵那山や木曽・恵那の山々が一望の下に眺められます。また、この城は山容まことに美しく、中山道
          を信濃から美濃に入って最初にそれと見える城でもあります。
           別称の霞ヶ城あるいは赤壁城についてですが、岩村同様この地方は霧が溜まりやすく、苗木では
          朝霧が木曽川の渓谷を埋め尽くして、幽玄な風景を醸し出します。写真に撮ることはできなかったの
          ですが、木曽川の朝霧に浮かぶ城跡は、それこそ天空の城としか思えないほど感動的で、この朝霧
          に龍が棲むと考えたとしても、なんら不思議ではないように思いました。
           木曽川を下ると、白帝城の雅称を持つ犬山城があります。これは川に臨む崖上の孤城を、三国志
          の一雄劉備が没した地としても名高い、中国は三峡の白帝城になぞらえたものです。ただ、建物こそ
          残ってはいないものの、むしろ苗木城の方がその名に相応しいようにさえ感じました。もしかしたら、
          赤壁城の雅称は同じ三国志の舞台となっている、長江下流の赤壁にもちなんで、犬山城とセットに
          したものなのかもしれません。
           難点は、本城域から城下町がまったく見えないということでしょうか。大手口から500mほど下った
          ところに城下町があり、その間にはきれいに石垣で区画された集落と田畑があるのですが、おそらく
          当時の家臣屋敷の跡だと思われます。
           また訪城に際しての難点は、駅からの交通手段が弱いことです。私は苗木城を訪れたいがために、
          中山道歩き旅にもかかわらず、中津川宿ではなく城の近くの民宿に泊まりました。宿の方に駅まで
          迎えに来てもらったのですが、普通に大手口まで訪れようとするとタクシーしか手段がありません。
          タクシー会社でも苗木までのツアープランを計画しているそうですが、これほどの観光資源なので、
          なんとか行政に方策をお願いしたいところです。
           以上のような訳で、私のなかでは満足度Sランクの城でした。

          (追記)
           10年以上ぶりに、下呂温泉から中央道へ向かう途中で苗木城に立ち寄りました。なにより驚いた
          のは、いつの間にやらだいぶ知名度が上がったようで、一般の観光客らしき人たちが大勢訪れて
          いたことです。駐車場も5か所ほどに増えているうえにほぼ満車で、休日とはいえ誘導員まで総出
          といった盛況ぶりでした。前回は独りだったことを思うと、浦島太郎のような気分になりました。

           
 苗木城本城域遠望。
足軽長屋跡。 
 風吹門跡。
大矢倉の石垣。 
 大矢倉裏手の北門跡。
大矢倉から本丸を望む。 
 大門跡と石碑。
 本丸と天守台を見上げる。 
 一枚岩の上に天守骨組みが復元されています。 
 武器蔵・具足蔵跡。
本丸の石垣を見上げる。 
 本丸から大矢倉跡を見下ろす。
天守骨組み上の展望台。 
 本丸からの眺望。
 下に木曽川の渓谷、奥に恵那山。
 その間に中津川の町並み。
 珍しい牢屋跡。 
 二の丸。礎石が残る。
城下町の風景。 
 城山大橋から本丸を望む。


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