苗木城(なえぎ)
 別称  : 霞ヶ城、赤壁城、高森城
 分類  : 山城
 築城者: 遠山景村ないし遠山直廉
 遺構  : 曲輪、石垣、天守台、井戸、礎石など
 交通  : JR中央本線中津川駅よりタクシーで10分


       <沿革>
           南北朝時代に遠山景村が築いたのがはじまりとも、戦国時代に遠山景友(惣領家岩村遠山氏)の子直廉による
          ともいわれる。直廉は、岩村遠山氏・明知遠山氏とともに「三遠山」と呼ばれ、恵那地方に勢力を張った。
           直廉の死後、苗木遠山氏には一族の飯羽間遠山氏から遠山友勝が養子として入った。その頃東濃は織田氏と
          武田氏の境界として緊張状態が続き、岩村城は武田氏の武将秋山虎繁(信友)によって落とされた。友勝の子の
          友忠は、岩村落城後も織田方につき、苗木城は織田氏の対武田最前線の城として機能した。
           天正三年(1575)の長篠の戦いの後、織田勢が岩村城を奪回すると、苗木の遠山氏は新たに岩村に入った川尻
          秀隆(鎮吉)の指揮下に組み込まれた。同十年(1582)に武田氏が滅亡すると、秀隆は甲斐に移封となり、岩村城
          には森乱丸成利が封じられたが(異説あり)、同様に遠山氏が森氏の指揮下に入ったかは不詳である。
           本能寺の変で信長や乱丸が死ぬと、友忠・友政父子は徳川家康に接近したが、羽柴秀吉に接近した美濃金山
          (兼山)城主で乱丸の兄の森長可の軍勢に敗れた。翌天正十一年(1583)、苗木城は落城し、遠山父子は家康を
          頼って落ちのびた。苗木城には、長可の弟忠政と、川尻秀隆の子秀長(直次)が城代として入った。慶長四年(15
          99)に忠政が信濃海津城へ転封となると、秀長がそのまま苗木1万石の城主となった。
           翌慶長五年(1600)の関ヶ原の戦いで秀長は西軍につき、伏見城の攻防戦で戦死、または本戦敗戦後に自刃
          したとされ、この間に、旧領復帰を目論んだ遠山友政(友忠は既に死去)が苗木城を奪取した。この功績により、
          友政は旧領苗木に1万余石を与えられた。その後、明治維新によって廃城となるまで、遠山氏12代の居城として
          存続した。
           なお、現在の遺構がいつの時代に築かれたものかは詳らかではないが、森氏から川尻氏を経て再び遠山氏が
          入る間に、その骨格は完成していたものと考えられている。雅称の霞ヶ城は、霧ヶ城の別称を持つ岩村城と対に
          したものである。また、同じく赤壁城とは、川尻秀長が城壁を白く塗り篭めようとしたところ木曽川の竜神が暴れて
          塗ることができず、やむなく赤い壁にしたという伝説に因むものである(実際には、塗篭の予算上の問題だったと
          みられている)。


       <手記>
           苗木遠山資料館の建つ大手口から登り、ほどなく視界が開けたと思うと同時に思わずひとり歓声を上げてしまい
          ました。目の前に突如として広がったのは、なんとも幻想的でファンタジーな風景でした。忽然と浮かぶ岩と石垣の
          山は、まるでミニチュア版のラピュタやモン・サン=ミシェルを見ているようでした。
           苗木城の一番の見所は、小さいながらも岩肌にしがみつくようなそこかしこの石垣と、山上からの絶景です。大手
          から入ってまず目に付く大櫓の石垣に登り、それから本丸を目指しました。本丸天守台には、巨大な一枚岩がその
          まま使用されています。現在天守台には、天守の柱組みだけが当時の場所に復元されています。この天守骨組み
          は、最上階だけ床板が敷かれて展望台となっています。ただ、何せ岩を削っただけの柱台ですから、柱の何本かは
          その柱台からはみ出していて、登るのにひとかけらの勇気を必要とします。展望台階段脇の注意書きにも、「ヘタを
          すると木曽川の断崖へ真っ逆さまなので、展望台の隅のほうには行かないように」という旨がやんわりと書いてあり
          ました。
           しかし、その分展望台や本丸からの景色は絶景の一言につきます。眼下には木曽川の渓谷、向こうには恵那山
          や木曽・恵那の山々が一望のもとに望めます。
           また、この城は山容まことに美しく、中山道を信濃から美濃に入って最初にそれと見える城でもあります。別称の
          霞ヶ城あるいは赤壁城についてですが、岩村同様この地方は霧が溜まりやすく、苗木では、朝霧が木曽川の渓谷
          を埋め尽くし、幽玄な風景を醸し出します。写真に撮ることはできなかったのですが、木曽川の朝霧に浮かぶ城跡
          は、それこそ天空の城としか思えないほど感動的でした。この朝霧に龍が棲むと考えたとしても、何等不思議では
          ないように思いました。
           木曽川を下ると、白帝城の雅称を持つ犬山城があります。これは、川に臨む崖上の孤城を、三国志の一雄劉備が
          没した地としても名高い中国三峡の白帝城になぞらえたものですが、建物こそないものの、むしろ苗木城のほうが
          その名にふさわしいようにさえ思いました。もしかしたら赤壁城の雅称は、同じく三国志の舞台で長江の下流にある
          赤壁にも因んで犬山城とセットにしたものかもしれません。
           城としての難点は、本城域から城下町が全く見えないということでしょうか。大手口から500mほど下ったところに
          城下町がありました。その間には、綺麗に石垣で区画された集落と田畑があるのですが、おそらくこれらは当時の
          家臣団屋敷の跡だと思われます。
           また訪城に際しての難点は、駅からの交通手段がないことです。私は苗木城を訪れたいがために、中山道歩き旅
          にもかかわらず、中津川宿ではなく城の近くの民宿に泊まりました。民宿の方に中津川駅まで迎えに来てもらったの
          ですが、普通に訪れようとするとタクシーしか手段がありません。タクシー会社の方でも、苗木までのツアープランを
          計画しているそうですが、これほどの観光資源ですから、何とか行政に方策をお願いしたいところです。
           以上のような訳で、私の中では満足度Sランクの城でした。


           
 苗木城本城域遠望。
大矢倉の石垣。 
 大門跡と石碑。
 本丸と天守台を見上げる。 
 一枚岩の上に天守骨組みが復元されています。 
 本丸からの眺望。
 下に木曽川の渓谷、奥に恵那山。
 その間に中津川の町並み。
 珍しい牢屋跡。 
 二の丸。礎石が残る。
城下町の風景。 


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