伊黒城(いくろ) | |
別称 : なし | |
分類 : 平山城 | |
築城者: 浅賀氏か | |
遺構 : 削平地、土塁 | |
交通 : JR湖西線近江高島駅よりバス 「伊黒」バス停下車 |
|
<沿革> 『高島町史』の「伊黒村篠目帳」に、延暦寺が応永二十六年(1419)に伊黒村一帯を 支配する浅賀左近尉を滅ぼしたとある。このことから『中世城館調査報告書集成』では、 伊黒城は浅賀氏(あるいは浅賀氏以前の在地領主)によって築かれたと推測している。 伊黒にある日吉神社は、明応年間(1492〜1501)に延暦寺下司職林右京亮によって 創建されたと伝わる。『高島郡誌』には、「或は言う 伊黒城は打下城林与次左衛門が 出城なり」とあり、右京亮は与次左衛門の一族とも推測される。『日本城郭大系』では、 右京亮が打下城の支城として伊黒城を築いたのがはじまりとしている。 永禄年間(1557〜69)ごろから、「法泉坊」なる山徒が城主として現れる。法泉坊は 比叡山の元衆徒で、姓名を新庄俊長といったとされる。『郡誌』には「吉武法泉坊」とも ある。吉武法泉坊は、五十川城や吉武城の城主としてもその名が挙がっている人物で ある。伊黒城では同じ比叡山門徒による城主の交代があったことになるが、その経緯は 詳らかでない。 法泉坊は浅井氏に属していたが、天正元年(1573)に織田信長の攻勢に屈して降伏 した。しかし、同年中に浅井長政の攻撃を受けて攻め滅ぼされた。その後の伊黒城に ついては不明である。 <手記> 伊黒城は、鴨川の谷戸に突き出した舌状台地を利用した城です。伊黒は高島と朽木、 ひいては京を結ぶルートを押さえる要衝の位置にあります。伊黒の集落のある台地は、 三方を崖と鴨川の支流に囲まれた天然の要害地形を成していて、台地全体が城域と みられています。ただ、その範囲や遺構については不明瞭な点が多く、いまだに謎を 秘めた城といえます。というのも、現状からはなかなか伊黒城の全体像を想像すること が困難です。長らく比叡山の影響下にあったことから、伊黒城は集落をそのまま城塞化 したものと考えられています。 わずかにたどれる城の痕跡としては、まず台地の東端近く、小学校があったとされる 跡地のあたりが字城垣内(じょうがいと)と呼ばれ、居館跡といわれています。集落の中 でも比較的広い削平地なのですが、これが学校の造成によるものなのか遺構なのかは 判別不能です。 『集成』では、集落背後の一段高い台地を詰城的な曲輪跡と推測しています。こちらも 見通しの利く平坦地形ですが、耕地化されているため、やはり遺構なのかどうかは判断 しにくいところです。さらに、『集成』では川を挟んだ西側にある日吉神社境内にも曲輪が 置かれていたと考えています。日吉神社には本殿を囲むように、土塁あるいは櫓台状の 土盛りがあります。これが城の造作だとすると、伊黒城でもっとも良好な遺構ということに なると思われます。 |
|
旧小学校跡地。字城垣内のようす。 | |
集落背後の台地上のようす。 『集成』では詰城的な曲輪跡とみています。 |
|
川越しに日吉神社を望む。 | |
本殿脇の土塁状土盛り。 |