吉武城(よしたけ)
 別称  : 針江城
 分類  : 平城
 築城者: 吉武壱岐守
 遺構  : なし
 交通  : JR湖西線新旭駅よりバス
       「森・吉武城跡前」バス停下車


       <沿革>
           吉武氏の居城とされる。『高島郡誌』によれば、吉武氏は比叡山門徒饗庭弥太郎の三男
          壱岐守にはじまる。弥太郎は美濃土岐氏の庶流と伝えられるとあるが、詳しい系譜は不明
          である。吉武氏は、壱岐守の兄2人がそれぞれ興した2家とともに高島(饗庭)三坊と呼ばれ、
          代々延暦寺山門領の代官を務めた。
           『郡誌』には、浅井備前守(長政)と六角承禎(義賢)の間の戦いで吉武城が落城し、吉武
          法泉坊が逐われたことが記されている。この戦いについては、真偽も含めて詳細は不明で
          ある。
           永禄年間(1558〜70)ごろから、同じ高島郡の伊黒城主として「法泉坊」の名が現れる。
          この法泉坊は姓名を新庄俊長といったとされるが、『郡誌』では五十川城主吉武法泉坊と
          している。伊黒城主法泉坊と新庄俊長、そして吉武法泉坊が同一人物かは詳らかでない。
           『郡誌』によれば、元亀二年(1572)の織田信長の高島攻略によって高島三坊は没落し、
          浪人になったとされる。


       <手記>
           吉武城は、湖岸にほど近い針江地区の平野のなかにあります。昔は堀や舟入跡などが
          あったそうですが、今はバイパスが貫通しているため遺構は残っていません。西700mほど
          のところには、詰城とされる五十川城があります。
           バイパス建設に先立ち発掘調査が行われたようですが、堀状遺構が検出されたほかは、
          城の全貌が明らかになるような発見はなかったようです。ただ、「慈生寺」と墨書がされた
          遺物が見つかったことから、寺と城が一体となって存在したか、あるいは吉武城址は寺跡
          であった可能性が指摘されています。
           現在は、バイパスのランプ北側のグラウンド脇(上の地図の緑点)に、ひっそりと説明板が
          建っているのみです。バス停の名称にもなっている吉武城址ですが、本当にここが城跡で
          あったどうかは、たしかな史料や伝承があるわけではないようなので、必ずしも所与という
          訳ではないようです。

           
 吉武城址説明板。
吉武城址周辺現況。 


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