蟻塚城(ありづか) | |
別称 : 中の城 | |
分類 : 平山城 | |
築城者: 笠原氏か | |
遺構 : 曲輪、堀、土塁 | |
交通 : JR飯田線伊那市駅からバスに乗り、 「笠原口」下車徒歩15分 |
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<沿革> 土豪笠原氏の居城と考えられている。笠原氏は諏訪氏の庶流とされるが、詳しい系譜 や分家した時期などは定かでない。 治承四年(1180)、木曽義仲と信濃の豪族笠原平五頼直が市原で合戦に及び、敗れた 頼直は越後の城氏を頼って落ち延びた。この市原を現在の伊那市西箕輪与地に比定し、 すでに笠原氏が入植していたとする説がある。しかし、参戦した他の武将が概ね北信を 本拠としていることや越後国との距離感などから、今日では頼直は現在の中野市笠原を 本貫とする説が有力である。他方で、『吾妻鏡』には信濃28牧の1つに伊那の「笠原牧」 の名が記されており、鎌倉時代には笠原氏が成立していた可能性が指摘されている。 『大塔軍記』によれば、応永七年(1400)の大塔合戦において、信濃守護小笠原長秀方 で参戦した伊那衆の1人として、「笠原中務亟」の名がみられる。したがって、このときまで には蟻塚城も築かれていたとみられている。伊那市教委の『市内道跡発掘調査報告書』 によれば、『守矢満実書留』の応仁元年(1467)正月一日の記事に、「笠原美濃貞政」の 名が記載されているとされる。貞政は、文明十四年(1482)の文明の内訌に際し、高遠 継宗に与したとされる。その後の笠原氏については定かでない。 <手記> 御射山神社の鎮座する緩やかな尾根上が蟻塚城跡です。背後の山上には守屋山城、 南西の独立丘には天神山城があり、「中の城(中之城)」の別称は、これら3城の中核的 な城であったという意味とみられています。 本殿があるのは副郭で、背後に堀切が設けられています。前方も腰曲輪を隔てて堀切 があり、その先は3段ほど雛壇状に削平地が続きます。主郭は地元の保存会により草が 刈られていて、後部に土塁が巡らされている様子がよく見て取れます。麓の眺望までは 樹木があって見渡せませんが、遠くに木曽山脈の山々がきれいに望め、そこそこの高所 に位置していることがわかります。私が訪れたとき、地元の老夫婦がいらっしゃっていて、 山菜を探しに来たとのことでした。たしかに、どことはいえませんが、城内には立派なタラ の木がそこかしこに生えているところがありました。 主郭の背後も堀切で切断され、その先を登ると守屋山城に至ります。堀切は、北側で カーブしてそのまま竪堀として落ち込んでいます。宮坂武男さんの鳥瞰図では、主郭背後 の堀切は2条あるように描かれていますが、実際に確認できたのは1条で、前出報告書の 縄張り図でも1条となっています。 全体として、曲輪の規模はともかく堀の造作はなかなかの規模があります。笠原氏の 記録は15世紀後半で途絶えていますが、少なくとも城については16世紀前半までは使用 されていたのではないかと思います。 もう1つ気になるのは、蟻塚城の立地です。山裾という中途半端な場所にあり、そのうえ ここに居館を設けたとすると、日常生活を送るには麓から高すぎるように感じます。御射山 神社および守屋山の呼称から、笠原氏が諏訪氏族である蓋然性は、かなり高いでしょう。 あるいは先に御射山神社があり、笠原氏が境内周辺を取り立てて城砦化したと考えること もできるかと思います。 |
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蟻塚城跡を望む(画面中央付近)。 奥の山上が守屋山城跡。 |
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参道口から御射山神社本殿方面を望む。 | |
本殿前方の堀切。 | |
同上。 | |
本殿下の腰曲輪。 | |
御射山神社本殿の鎮座する副郭。 | |
副郭北辺の土塁。 | |
本殿背後の堀切。 | |
堀切が竪堀となって落ち込むようす。 | |
主郭のようす。 | |
主郭後部の土塁を望む。 | |
主郭背後の堀切。 | |
堀切が竪堀となって落ち込むようす。 |