藤沢城(ふじさわ)
 別称  : 蛇山
 分類  : 山城
 築城者: 藤沢氏か
 遺構  : 曲輪、堀、土塁
 交通  : 中央自動車道諏訪ICから車で25分


       <沿革>
           同時代史料にはみられず、詳細は不明である。藤沢川の谷筋には、平安時代末期に大祝
          諏訪敦貞の二男敦真の子、千野光親の子清貞が入植し、藤沢氏を称している。現地説明板
          には、元暦・文治年間(1184~90)に「諏訪の社領に属していた藤沢盛景」が城主であったと
          伝わるとあるが、藤沢氏の系譜に盛景の名はみられない。また、藤沢氏は鎌倉時代に箕輪
          へ移ったとみられている。
           同じく現地説明板には、天文十八年(1549)に高遠家臣保科正直が居住したと伝えられて
          いるとある。ただし、正直は同十一年(1542)生まれのため、実際には正直の父正俊を指すと
          考えらえる。保科氏は諏訪氏一族とも、他田氏ないし源姓井上氏流ともされるが、本貫地は
          善光寺平の高井郡保科であり、高遠へ移住した経緯や時期については定かでない。
           天文二十一年(1552)、高遠頼継が武田晴信に滅ぼされると、正俊は武田家臣となった。
          その後は高遠城将の1人となったとされ、藤沢城も高遠城の支城として組み入れられたもの
          と推測されるが、詳しい扱いは不明である。


       <手記>
           藤沢城は、藤沢川と松倉川の合流点を見下ろす半独立峰上にあり、前者を遡れば杖突峠、
          後者なら金沢峠を経て諏訪へ通じる交通の要地にあります。麓には、江戸時代に伊那街道
          御堂垣外宿が置かれ、古くから町場も形成されていたのではないかと思われます。
           城跡へは、東麓の国道沿いに標識が出ているので、それを辿れば迷うことはありません。
          車は、国道が松倉川を渡る橋付近に広いスペースがあります。道もしっかりしていますが、
          途中の掲示などをみると、キノコの時期の入山は控えたほうがよさそうです。
           城は主郭の前後に2条ずつの堀切を穿ち、堀の前後も気持ち程度に曲輪形成した至って
          コンパクトな造りをしています。主郭も小さいながら土塁で囲まれ、ここに祠や説明板が設置
          されています。
           鎌倉時代に転出した藤沢氏が山城を設けていたとは考えづらく、やはり戦国時代に入って
          から、高遠氏によって築かれたと見るのが妥当でしょう。保科氏が城主であったかは分かり
          ませんが、武田氏が領有した後も、高遠と諏訪を結ぶ杖突街道の要衝として機能したものと
          推察されます。

           
 藤沢城跡を望む。
登山道を上がってまず着く鞍部。 
 城域後端の段差か。
背部2条目の堀切。 
 同上。
同じく1条目の堀切。 
 主郭のようす。
主郭の標柱と説明板。 
 主郭前部のようす。
主郭からの眺望。 
 前方1条目の堀切。
その先の腰曲輪。 
 同じく2条目の堀切。


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