松岡城(まつおか)
 別称  : なし
 分類  : 平山城
 築城者: 松岡氏
 遺構  : 堀、土塁、土橋
 交通  : JR飯田線下市田駅徒歩30分


       <沿革>
           国人松岡氏の居城とされる。松岡氏は、康平五年(1062)に前九年の役で敗死した
          安倍貞任の次男仙千代が信濃国伊那郡市田郷牛牧村に逃れ着き、この地で育って
          松岡平六郎貞則と名乗ったことにはじまるとされるが、史料上の裏付けはない。
           松岡氏は市田郷地頭として、当初400mほど上手の古城と呼ばれる台地縁に居館
          構え、南北朝時代ごろに、松岡城を築いて移ったと考えられている。遅くとも、松源寺
          が創建された永正年間(1504~21)までには、城が存在していたものと推測される。
           天文十三年(1544)、松岡頼貞は井伊直政の父直親を松源寺に匿っている。直親の
          父直満が、井伊家家老小野政直の讒言によって今川義元に誅殺され、後難を恐れた
          ためとされ、井伊家菩提寺龍潭寺の開基黙宗瑞淵が、松源寺を開山した文叔瑞郁の
          弟子であった縁によるといわれる。
           天文二十三年(1554)、武田晴信(信玄)が下伊那へ侵出すると、頼貞は武田氏に
          臣従した。天正十年(1582)の織田信長による武田攻めの際には、織田氏に服属した
          ものの松源寺を焼かれている。
           天正十三年(1585)、松本城主小笠原貞慶が豊臣秀吉に通じた際、松岡貞利もこれ
          に同調しようとした。この動きを、家臣となっていた座光寺為時が伊那を統括する菅沼
          定利に報告したため、貞利は捕えられて直政に預けられた。直政は大恩ある松岡家
          の存続に奔走したが、願い空しく同十六年(1588)に改易となった。これにより、松岡城
          も廃城となった。


       <手記>
           天竜川左岸の舌状の河岸段丘を利用した城で、地図上の等高線でも分かる堀切が
          良好に残されています。件の松源寺に駐車場もあり、境内背後の五の堀から、本丸の
          一の堀まで、残存具合に差はあれども、5本の堀跡が見晴らしよく続いています。地元
          の保存会も結成されているそうで、見学しやすく整備されているのは嬉しい限りです。
           本丸の先は尾根が二又に分かれており、現地の縄張り図によれば尾根の外側には
          多数の畝堀ないし竪土塁が設けられているそうです。しかしながら、私の訪問時期が
          悪かったのか、肝心の斜面は藪や灌木に覆われていて、遺構の有無がまったく分かり
          ませんでした。
           とはいえ主城域で十分眼福といえる城跡で、周囲に支城群もあり、松岡氏の最盛期
          のようすがうかがえるでしょう。

           
 現状最後尾の五の堀。
同上。 
 松源寺。
四の堀。 
 同上。
三の堀。 
 同上。
二の堀。 
 同上。
一の堀。 
 同上。
一の堀の土塁。 
 城址碑と主郭のようす。
主郭からの眺望。 
 主郭下の堀跡。
主郭下南側尾根筋のようす。 
右手は堀跡か。 
 南東側尾根のようす。
 左手外側に畝状竪堀があるというものの…。


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