田中城(たなか)
 別称  : なし
 分類  : 平城
 築城者: 藤沢頼親
 遺構  : 土塁
 交通  : JR飯田線北殿駅徒歩10分


       <沿革>
           伊那箕輪の国人領主であった藤沢頼親は、天文十三年(1545)に居城福与城を武田
          晴信(信玄)に攻められ、開城・降伏した。その後、弘治元年(1555)に信濃守護で義兄
          の小笠原長時が上洛して同族の三好長慶を頼ると、これに同道した。
           その後、三好氏が没落すると箕輪に帰還し、田中城を築いて居住したとされる(『伊那
          温知集』)。時期については、長慶が没した永禄七年(1564)から、織田信長が上洛した
          同十一年(1568)の間ごろと推測されるが、詳しい経緯は定かでない。
           天正十八年(1582)に武田氏が滅び、さらに本能寺の変が起きると、頼親は福与城を
          襲って奪還した。しかし、まもなく高遠城に拠った保科正直に攻められ、頼親・頼広父子
          は田中城で自害した。これにより、田中城は廃城となったものとみられる。
           慶長六年(1601)、関ヶ原の戦いの功績により長時の孫にあたる小笠原秀政が飯田
          5万石に封じられると、田中城跡に出張陣屋が設けられた。飯田藩小笠原家は同十八
          年(1613)に松本8万石へ加増転封となったため、陣屋もこのときに廃されたものと思わ
          れる。


       <手記>
           綿半スーパーセンター箕輪店の斜向かいに土塁の一部がわずかながら残り、その上
          に石碑が立っています。周辺は工業団地になっていて、逆にこの部分だけでも消えず
          に残っているのは奇跡とすらいえるでしょう。
           現地説明板にもあるとおり、伊那では珍しいまったくの平城です。『日本城郭大系』に
          よれば、今は天竜川が城の東を流れていますが、当時の河道は城の西側にあったそう
          です。
           となると、かつては福与城から遮るもののない眼下にあったことになります。福与城は、
          頼親の退去後に武田氏に取り立てられた形跡があり、田中城からみれば、常に高み
          から監視されているような恰好です。あくあまで私見ですが、頼親が武田氏に遠慮した
          か、あるいは武田氏から指定されて、敢えて腹を見せるような立地の田中城に住まわ
          ざるをえなかったのではないでしょうか。高遠城や飯田城など、丘陵上の城が江戸時代
          まで存続している点を鑑みると、それくらい田中城の選地は特異といえます。

           
 土塁跡の上に建つ城址碑と、標柱・説明板。
土塁を裏側から。 


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