石田堤(いしだづつみ)
 別称  : なし
 分類  : 土堤
 築城者: 石田三成
 遺構  : 土塁
 交通  : JR高崎線吹上駅徒歩20分


       <沿革>
           天正十八年(1590)の小田原の役に際し、北条家臣成田氏の居城忍城は石田三成
          率いる豊臣方の大軍に囲まれた。城主成田氏長は小田原城に詰めており、忍城には
          氏長の叔父泰季とその子長親ら2千人ほどが立て籠もっていたが、数日にわたる攻撃
          でも落ちる気配を見せなかった。
           三成は豊臣秀吉の指示に従い、荒川などを堰き止めて水攻めにすべく、土堤の構築
          を開始した。米や銭と引き換えに、近隣の農民に昼夜兼行で土を運ばせ、総長28km
          ともいわれる長大な堤防をわずか4〜5日ほどで完成させたといわれる。ただし、自然
          地形を利用した箇所も多く、完全な人工の土堤はずっと短い部分と考えられている。
           堤はできあがったものの水は思うように溜まらず、城を水没させるには至らなかった
          といわれる。それでもその後に連日大雨が降り、本丸まで水が上がるほどになったと
          される。しかし、六月十八日に堤の方が耐え切れずに決壊し、豊臣方の兵に数百名の
          死者が出たとされる。一説には、籠城方の決死隊が堤を切ったものといわれる。
           これにより水攻めは失敗に終わり、その後も包囲は続けられたものの、七月五日の
          小田原開城まで忍城は持ちこたえた。


       <手記>
           映画『のぼうの城』で有名になった忍城の戦いですが、石田堤は臨時の土堤という
          性格から、今日まで残っている箇所は限られています。行田市と鴻巣市の境となって
          いる堀切橋を挟んで、両側に数百mずつ伸びているのが、もっとも見応えのある箇所
          です。そのため石田堤をどちらの市の項に入れるか悩みましたが、忍城攻めのための
          堤ということから行田市側にしました。
           ただし、より良く整備されている方はというと鴻巣市側に軍配が上がるでしょう。上越
          新幹線の高架下に説明板があり、その脇の土塁は断面がショーウィンドウ形式で展示
          されています。さらにその上は簡易展望台となっていて、土堤の上に登ってみることも
          できます。
           行田市側の方は、おそらくもともとの台地地形の縁を利用していて、堤防というよりは
          土塁といった感じで道路に沿って伸びています。こちらは、鴻巣市側とは逆にほとんど
          整備の手を加えた形跡がない、歴史の流れのままの状態という点で、中世城郭ファン
          としては安心して見ることができます。
           堀切橋は、ちょうどこのポイントで決壊したということからその名が付いたそうです。
          今は忍川の本流となっている新忍川が流れていますが、古地図を見ると、当時は特筆
          することもない小谷戸だったようです。水浸しの城を抜け出して、わざわざここまで決壊
          工作に忍んで来るというのは、ちょっと非効率なようにも感じます。
           ちなみに、堀切橋両側のほかに、三成が陣を敷いたという丸墓山古墳の麓にも堤の
          跡が残っています。
           地図で見て、また実際に訪れてみて、ここで荒川を堰き止めて忍城まで水に沈める
          というのは、作戦として現実的だったのかなというのが実感です。秀吉自身の先例で
          ある備中高松城や紀州太田城の城と堤の距離と比べても、あまりに水没予定範囲が
          広すぎるように思います。秀吉が自分で攻城に来ていたら、さすがに水攻めは選ばな
          かったか、もしくは忍川を堰き止める程度でもっと狭い範囲で行っていたのではないか
          と感じました。すべて秀吉の指示に従っただけというなら、三成もさすがに可哀そうな
          気がします^^;

           
 鴻巣市側の石田堤。
堤の上から。 
 堤の断面ディスプレイ。
行田市側の石田堤。 
 堀切橋付近のようす。


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