石浜城(いしはま)
 別称  : なし
 分類  : 平城
 築城者: 千葉実胤
 遺構  : なし
 交通  : JR常磐線他南千住駅徒歩7分


       <沿革>
           享徳三年(1455)にはじまる享徳の乱で、下総の名族千葉氏の嫡流である千葉実胤・自胤兄弟は、
          庶流の原氏や馬加氏らに逐われ、武蔵の太田道灌を頼った。実胤は石浜城に拠り、自胤は赤塚城
          居城とした。
           千葉氏以前にも、江戸氏一族の石浜氏が城館を営んでいたとされるが、詳細は不明である。石浜・
          赤塚の千葉兄弟は、武州千葉氏と呼ばれた。
           寛正四年(1467)、実胤は家督を自胤に譲って隠遁し、自胤が石浜城に入った。自胤は道灌の武将
          として各地を転戦し、武蔵千葉氏の基礎を築いた。自胤の系統は幕府によって千葉氏の正当な当主
          と認められたが、下総への帰還はかなわなかった。
           天正二年(1574)、武蔵千葉氏当主千葉胤宗は下総関宿城を攻めた際に討ち死にし、北条氏繁の
          四男直胤が婿養子となって跡を継いだ(ちなみに、下総千葉氏も北条氏政の子直重が継いでいる)。
          直胤の事跡はほとんど明らかではないが、彼の代に小田原の役が起こったと思われる。この戦いに
          より北条氏が滅亡すると、武蔵千葉氏も所領を失い、石浜城も廃城となった。

       <手記>
           石浜は浅草あたりから北側の隅田川右岸一帯を指す、わりと範囲の広い地名です。城の所在地に
          ついては諸説あり、大きく分けて石浜神社周辺とするものと、待乳山聖天周辺とするものの2つがあり
          ます。どちらとも確証はありませんが、現在のところ石浜神社周辺とする説の方が有力なようです。
           石浜神社は、聖武天皇の神亀元年(724)に創祀され、門前には『伊勢物語』で在原業平が渡った
          「隅田の渡し」があったとされています。このことから、石浜周辺が古くから交通の要衝であったことが
          うかがえます。
           遺構はありませんが、石浜神社は南を除く東西北に対してやや微高地にあります。すぐ隣の白鬚橋
          からは、スカイツリーが遮るものなく望めます。


           
 石浜城址比定地(石浜神社)を望む。
おまけ:石浜城址周辺から望むスカイツリー。 
手前の橋は白鬚橋。 


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