赤塚城(あかつか) | |
別称 : 赤塚城山 | |
分類 : 平山城 | |
築城者: 千葉自胤か | |
遺構 : 堀、土塁 | |
交通 : 都営地下鉄三田線西高島平駅または 東武東上線成増駅徒歩15分 |
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<沿革> 享徳三年(1455)にはじまる享徳の乱で、下総の名族千葉氏の嫡流である千葉実胤・自胤兄弟は 庶流の原氏や馬加氏らに逐われ、武蔵の太田道灌を頼った。実胤は石浜城に拠り、自胤は赤塚城 を築いて居城としたといわれる。 しかし、赤塚にはそれ以前に豊嶋氏の庶流である赤塚氏がいた。赤塚氏の居城がどこにあったか は詳らかではないが、赤塚城はもともと赤塚氏の城であり、道灌の支援を得た自胤が同氏を逐って 入城した可能性も否定できない。 寛正四年(1467)、実胤は家督を自胤に譲って隠遁し、自胤は兄の居城石浜城を継いだ。自胤は 道灌の武将として各地を転戦し、武蔵千葉氏の基礎を築いた。自胤の系統は幕府によって千葉氏 の正当な当主と認められたが、下総に返り咲くことはできなかった。なお赤塚氏は、道灌によって 宗家の豊嶋氏とともに滅ぼされている。 自胤が石浜城へ移った後は、赤塚城には千葉家臣あるいは一族が城代として入っていたものと 思われる。武蔵千葉氏は、北条氏の台頭後は同氏に従い、『小田原衆所領役帳』には松戸越前守 が赤塚城にあったことが記載されている。また赤塚城の東にある松月院は、千葉介自秀の開基と 伝わる。しかし、千葉氏の系図には自秀なる人物は載っていない。『新編武蔵国風土記稿』では、 自秀は自胤の誤りであろうと推測している。これに対し、『江戸名所図会』は自秀は自胤の同族で 別人であるとしている。もし別人であるとすれば、自秀は自胤が石浜城へ移った後の赤塚城を引き 継いだ一族の人物であると解釈することもできる。 天正二年(1574)、武蔵千葉氏当主千葉胤宗は下総関宿城を攻めた際に討ち死にし、北条氏繁 の四男直胤が婿養子となって跡を継いだ(ちなみに、下総千葉氏も北条氏政の子直重が入嗣して いる)。直胤の事跡はほとんど明らかではないが、彼の代に豊臣秀吉による小田原の役が起こった と思われる。これにより北条氏が滅亡すると、武蔵千葉氏も所領を失い、赤塚城も廃城となった。 <手記> 赤塚城は荒川南岸の舌状台地にあり、北麓には徳丸ヶ原と呼ばれる湿涼とした原野が広がって いました。現在、本丸から二の丸と考えられている一帯が、公園として整備されています。本丸の 北側直下にはため池があり、休日には多くの釣り人でにぎわっています。このため池は、湿地帯を 利用した水濠の跡で、かつては城を囲むように巡っていたということです。 本丸周辺はほとんど開発の手が入っていないにもかかわらず、遺構ははっきりしません。本城域 から谷戸を1つまたいだ乗蓮寺(板橋区仲町にあったが1973年に現在の場所へ移転)は、赤塚城の 出丸の跡ともいわれていますが、確証はありません。 なお、私が中学生の頃に赤羽の稲付城からこの赤塚城まで歩いたことがあります。今思えばよく 歩いたものだと我ながら感心しますが、赤塚城についたころには足が棒になったことを覚えています。 ただ、周辺の風景は当時とあまり変わっていないように感じました。 |
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赤塚城山を北から望む。 手前のため池は水濠跡です。 |
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本丸跡に建つ城址碑。 | |
本丸のようすと城址碑(右)。 | |
出丸跡と伝わる乗蓮寺の東京大仏。 奈良・鎌倉につぐ3番目の大きさだそうです。 |