関宿城(せきやど)
 別称  : なし
 分類  : 平城
 築城者: 簗田氏
 遺構  : 堀跡
 交通  : 東武野田線川間駅よりバス
       「関宿城博物館」バス停下車。


       <沿革>
           『関宿志』によれば、古河公方家重臣簗田成助によって、長禄元年(1457)に築かれたとされる。
          一般には、簗田氏は成助の祖父満助が下河辺荘に移って水海城を築き、後に関宿城へ進出して
          新たな居城としたと考えられている。ただし、水海城の築城年代を成助の弟政助のころまで下ると
          するものや、関宿築城を成助の父持助の代とする説もある。そのため、築城者の解釈によっては、
          水海城が関宿城より後に築かれたことになる。
            天文二十三年(1554)、古河公方足利晴氏は、北条氏康に古河城を攻められ降伏した。氏康
          は、自分の妹と晴氏の間に生まれた義氏を新たな古河公方としたうえで、簗田氏に関宿城を義氏
          に譲るよう迫った。利根川水運の要衝である関宿城の価値に注目したもので、氏康は後年「一国
          に値する城」と評したとされる。晴氏は相模国に幽閉され、義氏が関宿に入り、簗田氏は古河城に
          移った。
           永禄三年(1560)に越後の長尾景虎(上杉謙信)が関東に出兵すると、簗田晴助は自身の姉と
          晴氏との子で義氏の異母兄にあたる藤氏を擁立し、北条氏に反旗を翻した。義氏は関宿城を脱出
          したため、簗田晴助が城を接収し、古河には藤氏が入った。謙信が越後へ帰国するとすぐに北条
          氏の反撃が始まり、同五年(1562)には古河城が攻め落とされた。藤氏も捕えられたが、晴助は
          関宿城で頑強に抵抗を続け、以後3次にわたる攻防戦が繰り広げられることになる。
           永禄八年(1565)の第一次関宿合戦では、関宿城へ迫る北条軍を晴助がゲリラ戦法で足止め
          し、その間に上杉・佐竹両氏が援軍を出したため、寄せ手が撤兵して収まった。同十一年(1568)
          の第二次関宿合戦では、落城間際まで追い詰められたが、甲斐の武田信玄と北条氏の関係が
          悪化したことから講和の機運が高まり、関宿城の現状維持と義氏の古河復帰という条件で停戦
          となった。
           氏康が死去して甲相同盟が復活すると、第三次関宿合戦が勃発し、氏康の次男氏照によって
          攻めたてられた。後詰の要である上杉氏と佐竹氏の相互不信による足並みの乱れや、簗田氏の
          一族・家臣から内応者が出たことなどにより、天正二年(1574)についに晴助は降伏・開城した。
          晴助・持助父子は水海城(前出の水海城とは別個に新造したもの)に退き、関宿には氏照を後見
          として義氏が入った。同十一年(1583)に義氏が死没すると、氏照が直接関宿城を管理するように
          なり、第三次関宿合戦で内応した晴氏の弟助縄が城代に任じられたとされる。
           晴助はすでに家督を持助に譲っていたが、天正十五年(1587)に持助が父に先立って病死する
          と、その子助利(貞助)はまだ幼かったため、一時的に助縄が簗田氏当主と認められたとされる。
          同十八年(1590)の小田原の役で、簗田氏は北条氏に連座して改易されたが、このとき関宿城で
          戦闘があったかは詳らかでない。同年に徳川家康が関東に入国すると、久松松平康元が2万石
          で関宿城主となった。
           元和二年(1616)、康元の子忠良は美濃大垣城へ転封となり、代わって能見松平重勝が入城
          した。以後、小笠原家2代、北条氏重1代、牧野家2代、板倉家3代、久世家2代、牧野家2代と、
          譜代大名家が目まぐるしく交代した。牧野成春の後、久世重之が5万石で関宿に再封されると、
          久世家が8代を数えて明治維新を迎えた。


       <手記>
           関東を代表する名城のひとつといっても過言ではない関宿城ですが、江戸時代の利根川東遷
          事業や戦後の河川改修により地形は大きく改変されていて、遺構もほぼ堤防と河川敷に埋もれ
          て消滅しています。
           江戸時代には利根川から分流させた逆川を背にして、輪郭式に曲輪を配置した城だったよう
          です。現在、利根川と江戸川の角に天守風の県立関宿城博物館が建っていますが、ここは城外
          であるばかりか、当時は逆川の対岸に位置する場所だったそうです。
           博物館下から堤防沿いに南下すると、関宿城址の石碑があります。ここは本丸の東端付近に
          あたるそうで、その南方の集落内に、佐竹門跡や大手門跡といったポイントの説明板が点在して
          います。とくに大手門跡脇のほとんど用水路にしか見えない溝は、大手の堀跡ということなので、
          それはそれは貴重な遺構ということになるでしょう。
           また、久世家菩提寺の実相寺の客殿は本丸新御殿の一部と伝わり、市内には大手門と埋門
          とされる門が移築・現存しています。さらに、茨城県坂東市の逆井城址公園に、なぜか関宿城
          の藥医門が移築されています。
           関宿城で個人的にどうしても気になるのは、戦国時代にはどういう地形だったのだろうという点
          です。曲輪の配置から城の向きからガラッと全転換してしまうということは、あり得ないことでは
          ないでしょうが、ちょっと考えにくいように思います。したがって、逆川(現在の江戸川起点流域)
          が開かれる以前にも、沼地なり小河川なり何らかの水場があり、それを背にして展開する城で
          あったと考えるのがもっとも自然なように思われます。また、現在の地形をみるに、実相寺方面
          から細長く伸びる微高地の先端に位置していることから、こちらを大手とする台地の端に築かれ
          ていたものとも推測できます。他方で、江戸川対岸の五霞町山王地区や本村地区が不自然に
          独立した微高地となっていることから、かつてはこれらと地続きであった可能性も指摘できるか
          と思います。このように、私の推測の範疇では確たる意見をもつには至らず、もやもやした状態
          となっています。

           
 千葉県立関宿城博物館。
関宿城址碑。 
 博物館下から石碑のある広場(本丸東端)を望む。
佐竹門跡。土盛りは土塁と関連があるか。 
 大手門脇の堀跡とされる溝。


BACK