石倉城(いしくら)
 別称  : 崖端城
 分類  : 平城
 築城者: 長尾忠房・武田信玄
 遺構  : なし
 交通  : JR両毛線前橋駅よりバス
       「上石倉」バス停下車


       <沿革>
           この地に石倉城と呼ばれるものは、大きく2つあるようである。1つは、総社長尾氏の長尾忠房もしくは
          その子が、蒼海城に代わる新たな居城として築いたものである。現地の説明板によれば、築城は文明
          十七年(1485)のこととされる。この石倉城は、利根川の河岸に築かれた城であるが、当時の利根川は
          現在よりもかなり東側を流れていたと推測され、近世前橋城の一部もその城域に含まれていたと考え
          られている。しかし、この石倉城は時期は不明だが利根川の氾濫によって崩落し、総社長尾氏は再び
          蒼海城へ居城を戻した。
           2つ目の石倉城は、対岸の厩橋城(前橋城の前身)制圧の拠点として、武田信玄によって築かれた。
          築城時期については定かでない。『日本城郭大系』では、永禄八年(1565)に厩橋城の上杉方が石倉城
          を攻め取ったとする『上州故城塁記』の記述を取り上げて、この年までに築かれたものと推測している。
          現地の説明板も、この記述にしたがっている。しかし、今日では箕輪城落城が同九年(1566)とされて
          いることから、『大系』でも『城塁記』の同八年の記述に疑問を差し挟んでいる。いずれにせよ、箕輪城の
          長野氏を滅ぼし、次の狙いを厩橋城に定めた信玄によって、対の城として築かれたことは間違いないで
          あろう。
           その後、厩橋城主北条高広が一時北条氏に寝返るなどし、石倉・厩橋両城は武田・上杉・北条の3氏
          の係争の地として攻防が繰り返された。
           天正七年(1579)、上杉謙信死後の御館の乱に乗じて武田勝頼が厩橋城を制圧した。このとき、石倉
          城は存在意義を失い、一度打ち捨てられたものと考えられる。同十年(1582)に武田氏が滅亡すると、
          滝川一益が厩橋城に入ったが、同年中に本能寺の変が起こり、一益は関東を去った。一益を逐った北条
          氏直は、厩橋城奪取のための対の城として、再び石倉城を取り立てたとされる。
           天正十八年(1590)の小田原の役で、徳川家康の家臣松平(依田)康国が石倉城を攻めた。守将寺尾
          左馬助(『大系』では小林左馬助)は耐え切れず康国に降ったが、城の明け渡しに際して康国を殺害した。
          左馬助は、その場で康国の弟康寛によって討たれ、城は落城した。ただし、康国は単に城攻め中に戦死
          したともいわれる。その後、北条氏の滅亡とともに廃城となったと思われる。


       <手記>
           上述のとおり、石倉城と呼ばれるものには2つありますが、総社長尾氏によって築かれた1つ目の石倉
          城は、今では利根川と前橋城の下に消滅しているものと思われます。
           信玄によって築かれた2つ目の石倉城も、利根川によってだいぶ削られてしまいました。現在、二の丸
          公園として整備された公園の一角に、石碑と縄張り図、そして地元愛好会による城の縁起を記した碑文
          (説明板)が建てられています。
           一部の用水路などに、当時の外郭をみることはできなくはないのですが、とくに遺構と呼べるようなもの
          は残されていません。上図のラインは、それぞれ本丸と二の丸の堀、そして外堀を大まかになぞったもの
          です。


           
 石倉城址石碑。
石倉城縄張り図。 
 石倉城址から厩橋城址(群馬県庁)を望む。


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