前橋城(まえばし)
 別称  : 厩橋城
 分類  : 平城
 築城者: 長野方業か
 遺構  : 土塁、堀跡、石塁
 交通  : JR前橋駅または上毛電鉄中央前橋駅徒歩10分


       <沿革>
           前橋城の前身は、総社長尾氏の祖長尾忠房が南北朝時代に築いた石倉城にあるとされる。
          当時、利根川は現在より東を流れており、石倉城はその右岸に築かれた城であった。しかし、
          16世紀前半の利根川の氾濫により、初期石倉城はほとんどが河中に崩落してしまった。
           その後、利根川の流路変更により川の左岸となった石倉城址に、箕輪城長野氏一族の長野
          宮内大輔(法号固山宗賢)が新城を築いた。これが厩橋城である。ただし、長野氏の系譜には
          不明な点が多く、宮内大輔が一体誰なのかは明らかとなっていない。箕輪城主長野憲業の弟
          とされる方業を宮内大輔とする説が有力であるが、確証はない。『前橋風土記』には、固山宗賢
          の後、厩橋長野氏は道安、道賢、賢忠と続く。賢忠を方業と同一人物とみなす説もある(『日本
          城郭大系』)など、その系譜は混乱している。
           厩橋長野氏は大胡領へ侵攻して勢力を広げ、厩橋衆を形成したとされる。しかし、天文十年
          (1541)に金山城を攻めて敗れ、勢いを失ったとされる。永禄三年(1560)、越後の長尾景虎が
          関東に進軍すると、厩橋衆の長野藤九郎と同彦七郎は景虎に従った。どちらかが厩橋城主と
          思われるが、詳細は不明である。景虎は、厩橋城を拠点として接収し、翌四年(1561)に越後
          へ帰国した際には、一族の長尾謙忠を城代に任じた。これによって、厩橋長野氏は没落したと
          される。
           同六年(1563)、攻勢に出た北条・武田連合軍によって厩橋城は攻め落とされたが、まもなく
          上杉輝虎(長尾景虎から改名)により奪還された。このとき、輝虎は城代謙忠を誅殺したとされる。
          厩橋城代には、代わって北条高広が任じられた。同九年(1566)に箕輪城が武田信玄によって
          落とされ長野氏が滅亡すると、信玄は石倉城(忠房の築いた城とは別)を築いて対岸の厩橋城
          と対峙した。南からも北条氏の勢力が迫るなか、翌十年(1567)には高広が北条氏に寝返って
          厩橋城を明け渡してしまった。翌十一年(1568)、上杉氏と北条氏の間で越相同盟が成立する
          と、高広は上杉家へ帰参し、厩橋城も上杉氏に譲渡された。その後、高広は隠居して大胡城
          移り、嫡子景広が厩橋城を守った。
           天正六年(1578)に上杉謙信(輝虎)が死去し御館の乱が発生すると、混乱に乗じて武田勝頼
          が厩橋城を攻撃した。景広は御館の乱に巻き込まれて討ち死にしており、厩橋城にあった高広は
          勝頼に降伏した。同十年(1582)、武田氏が織田信長によって滅ぼされると、高広は織田家重臣
          滝川一益に従った。同年、本能寺の変が起こると一益は領国へ退き、高広はふたたび北条氏に
          なびいた。しかし、まもなく高広は上杉景勝に寝返った。翌十一年(1583)、北条氏直は自ら軍勢
          を率いて厩橋城攻略に向かった。一旦は持ちこたえたが、耐えきれずに翌年厩橋城は北条氏の
          手に落ちた。
           同十八年(1590)の小田原の役で、厩橋城は浅野長政ら北国勢に攻め落された。戦後、関東
          に移封された徳川家康の家臣平岩親吉が、3万余石で厩橋城に入城した。関ヶ原の戦いの後の
          慶長六年(1601)、甲府城へ移った親吉に代わり、酒井重忠が厩橋へ入った。重忠は厩橋城を
          改修し、近世城郭として整備した。重忠の曾孫忠清の頃に、厩橋から前橋へと改称された。下馬
          将軍の異名で知られる大老忠清の頃には、前橋藩は15万石の大身となっていた。
           寛延二年(1749)、酒井家は姫路へ転封となり、代わって松平朝矩が姫路から前橋へ入った。
          しかし、この頃には利根川による前橋城地の浸食が進み、本丸のほとんどが川へ崩落するまで
          に至っていた。明和五年(1768)、ついに朝矩は前橋から川越へ藩府を移し、荒廃した前橋城址
          には陣屋がおかれた。
           ほぼ100年近くこの状態が続いたが、幕末になって幕府は江戸防備の観点から前橋城再建の
          必要性を感じ、文久三年(1863)に川越藩主松平直克に再築の許可が下りた。新前橋城は、旧
          前橋城の三の郭を本丸とし、旧城の縄張りを踏襲しつつも、稜堡を配置するなど近代の築城技術
          を取り込んだ最新式の築城思想に基づいて建築された。城は4年後の慶応三年(1867)に完成
          したが、同年に大政奉還されたため、最後の日本式城郭として短い使命を終えることになった。

       <手記>
           前橋城址は、現在群馬県庁と周辺公庁舎用地となっています。本丸の北三分の一ほどの土塁
          が良好に残っており、北東隅の櫓台には城址碑が建てられています。また、県庁前通り北側の
          建物裏手に車橋門の石垣が残っています。ただし、開発のため門の左右の石垣の間隔が8mも
          詰められているらしく、あまり門の跡のようには見えません。
           さらに、本丸北の前橋公園には北郭の土塁が復元されています。ただこちらも、河川敷の親水
          公園に降りるトンネルが土塁の下を貫通しているなど、やや忠実さに疑問が残ります。さらに北郭
          の北の空堀跡も遺構として残っていますが、こちらは現在遊園地となっています。
           余談ですが、前橋城址に建つ群馬県庁は県内でもっとも高い建築物だそうで、県民のお出かけ
          スポットになっているということです。

           
 本丸北東隅の櫓台跡。
本丸東側の土塁。 
 本丸北の子の門跡。
本丸跡にそびえる群馬県庁。 
 車橋門跡石垣。
 左の石垣が右の石垣に8m寄せられてます。
前橋公園の北郭復元土塁。 
 北郭北の空堀跡の遊園地。


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