石母田城(いしもだ)
 別称  : なし
 分類  : 平城
 築城者: 石母田氏
 遺構  : 土塁、堀
 交通  : 東北自動車道国見ICから車で10分


       <沿革>
           伊達氏重臣・石母田氏の居城である。『伊達世臣家譜』によれば石母田氏は甲斐武田氏の
          庶流で、伊達氏初代・伊達(中村)朝宗が文治五年(1189)に伊達郡を与えらえて移り住んだ
          際、それに従って石母田村に入植したと伝わる。これが正しければ、伊達家最古参の家臣の
          1つといえるが、戦国時代後期に至るまでの系譜は定かでない。
           天文十一年(1542)に勃発した天文の乱において、嫡男の晴宗によって桑折西山城に幽閉
          された伊達稙宗は、小梁川宗朝によって救出されるとまず石母田城を拠点とし、翌年四月に
          懸田城へ移った。当時の城主は石母田宮内少輔とも石母田光頼ともいわれ、6年後に晴宗の
          勝利で乱が終結すると、光頼が晴宗から所領を安堵されている。宮内少輔と光頼は同一人物
          であるとも、稙宗方の宮内少輔が没落して晴宗に同調した光頼が石母田氏宗家を継いだとも
          考えられるが、詳細は不明である。
           天正十九年(1591)に伊達家が岩出山へ転封となると、光頼の子・景頼も主君・伊達政宗に
          従って伊具郡の荒山城へ移った。これにより、石母田城も廃城となったとみられる。


       <手記>
           石母田城は、奥州合戦の主戦場となった阿津賀志山の南西麓に位置する平城です。主郭は
          民家や畑地となっていて、上図に見える通り箱型の堀跡が残っているようなのですが、私有地
          を抜けなければならないため見学は困難そうです。
           このときは、総勢10名以上のオフ会で阿津賀志山防塁のついでに立ち寄り、南西隅の荒町
          虎口付近だけ見学しました。外郭にあたる部分ですが、堀跡や土塁のラインは残っており、また
          堀跡を辿って二の丸の土塁まで見ることができました。馬出しまで備えた、かなり整った城郭で
          あったようで、最終的には伊達政宗のもとで伊達家譜代の重臣らしい規模と格式に改修されて
          いたようです。

           
 荒町虎口の説明板。
荒町虎口のようす。 
 外郭の堀および土塁跡。
同上。 
 二の丸の土塁。


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