懸田城(かけだ)
 別称  : 掛田城、茶臼館、桜館
 分類  : 山城
 築城者: 北畠顕家
 遺構  : 曲輪、堀、土塁
 交通  : 福島駅からバスに乗り、「掛田新町」
      下車徒歩15分


       <沿革>
           国人・懸田氏の居城である。『懸田史』によれば、源義家の六男・陸奥六郎義隆の後裔とされる
          杉目郷高松城主の高松近江守定隆が、建武二年(1335)に北畠顕家の命により懸田城へ移り、
          懸田氏を称したとされる。すなわち、顕家ら南朝方の拠点となった霊山城の支城としての役割を
          期待されたものとみられるが、顕家と義良親王が霊山城へ移るのは延元二/建武四年(1337)で
          あるため、それ以前に懸田城を築く積極的な理由は見当たらない。
           他方で、『伊達世臣家譜』や『伊達正統世次考』では懸田氏を大江姓とし、嗣子のなかった懸田
          常陸介定義が蘆名遠江守泰盛の五男・泰義を後継ぎとしたとある。泰盛は鎌倉時代中期の人物
          であり、事実であれば懸田氏はそれ以前に成立していたことになる。
           懸田氏の史料上の初出は、応永七年(1400)に懸田大蔵大輔宗顕が菊田荘(現・いわき市)の
          藤井孫四郎貞政と結んだ一揆契状とされる。同二十年(1413)には、懸田定勝が伊達持宗と共に
          大仏城で挙兵し、鎌倉公方に反旗を翻した。持宗の庶長子・義宗は、定勝の子とされる懸田詮宗
          の養子となった。これ以降、懸田氏は伊達氏の有力一門に位置付けられたものとみられる。
           義宗の孫・俊宗は、持宗の曽孫・稙宗の女を継室とし、天文十一年(1542)に稙宗・晴宗父子間
          で天文の乱が勃発すると、桑折西山城から救出された岳父を懸田城に匿い保護した。翌十二年
          (1543)には晴宗軍が懸田城を攻撃し、晴宗の弟にあたる亘理綱宗が戦死した。さらに翌十三年
          (1544)九月には懸田家臣・青木伊豆らが離反し、晴宗方の兵が懸田城を囲んだが、伊豆が討ち
          死にするなどして撃退に成功している。
           しかし、天文十六年(1547)に蘆名盛氏が晴宗方に転じると戦況は逆転し、翌年(1548)に将軍・
          足利義輝の仲裁を受けて、6年に及ぶ天文の乱は晴宗優位で幕を閉じた。稙宗は隠居し、俊宗は
          和議の条件として懸田城の破城を命じられた。
           これに不満を抱いていた俊宗は、天文二十二年(1553)に謀反を起こしたが、中島伊勢(宗忠)・
          桜田右兵衛(資親)らの寝返りにより敗れ、嫡男・義宗ともども晴宗に斬られた。宗忠の子・宗求や
          資親の子・元親は、後に伊達政宗の重臣となっている。また、義宗の弟・晴親は、姉または妹が
          正室(掛田御前)となっている相馬盛胤を頼り、その子孫は黒木氏と改姓して仙台藩士となった。
           永禄九年(1566)には、苅田郡の地頭・中目長政に懸田城が与えられているが、その後の扱い
          は定かでない。


       <手記>
           掛田の街を見下ろす比高130mほどの古城山が、懸田城跡です。今では桜の名所となっている
          そうで、麓から山頂まで遊歩道が付いています。そのため、本丸西尾根のルート上には数多くの
          削平地が並び、腰曲輪群とみて遜色はないのですが、本丸とその下の二の丸を除くと断言までは
          できかねるようです。
           本丸には俊宗や掛田御前などを祀る城主宮があり、その東側の付壇にも社殿が建っています。
          付壇の下方には細い帯曲輪が付随し、また南東へ下ると貴重な堀切も残っていました。私が訪城
          した5月とて下草が茂りつつあったので、できれば桜の時期に訪れるのがやはりベストでしょう。

           
 登城口の説明板。
大手口か。 
 本丸西尾根の腰曲輪状削平地。
同上。 
 同上。
二の丸跡。 
 本丸のようす。
本丸に鎮座する城主宮。 
 本丸東側の切岸。
本丸付壇下の帯曲輪を見下ろす。 
 本丸東方の堀切。


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