磯部城(いそべ) | |
別称 : なし | |
分類 : 平城 | |
築城者: 不明 | |
遺構 : 土塁 | |
交通 : JR相模線相武台下駅または小田急線相武台前駅 よりバス。「磯部」バス停下車徒歩5分または15分 |
|
<沿革> 磯部城は、文明八年(1476)に始まる長尾景春の乱に登場する城である。景春は、 祖父の代から白井長尾家が受け継いだ山内上杉氏家宰職が同族の総社長尾家の 忠景に与えられたことに不満を抱き、主家に叛旗を翻した。この乱は、同じく上杉氏 や扇谷上杉氏家宰太田道灌に不満を抱く国人たちの同調を招き、関東一円を巻き 込んだ大乱に発展した。 乱は道灌の活躍により徐々に収束に向かい、文明十年(1478)に小机城が落ちる と、道灌は西進して相模国の諸城攻略にかかった。このときに落とされた諸城の1つ として、磯部城の名が『太田道灌状』に挙がっている。ただし、金子掃部助の小沢城 や溝呂木正重の溝呂木城と異なり、城主などは分かっていない。 その後の磯部城についても不明である。 <手記> 磯部城は、「二重堀」や「堀之内」といった字名の残る御嶽神社(上の地図の下方 右手に図示)あるいは能徳寺(下方左手)周辺に存在したと考えられています。ただ、 御嶽神社と能徳寺は少々離れているため、両者とも城域とすると規模が大きすぎる ように思われます。どちらにも遺構は認められませんので、このあたりはなんともいえ ません。 対して、能徳寺の北700mほどのところに、「上磯部の土塁」と呼ばれる遺構があり ます(上方に図示)。相模川の河岸に垂直に延びる土塁で、崖端の城に典型的なもの といえます。この土塁をコの字型に補ってやれば、当時の城館として妥当な縄張りで あったと推測できます。 この土塁については、磯部城の付属施設であったと考えられているようです。しかし、 先の能徳寺や御嶽神社を磯部城跡と考え、この上磯部の土塁までを城域に含めると、 近世城郭よりも規模の大きな城になってしまいます。それゆえ、能徳寺・御嶽神社の 城と上磯部の城は、別のものと考えるのが妥当と思われます。 能徳寺・御嶽神社の城は、田園地帯や集落のど真ん中にあり、要害性はほとんど 感じられません。いっぽう上磯部の城は、西に相模川とその河岸の崖、そして北に 鳩川の分水流と八瀬川が流れ、城の北西で相模川に合流しています。要害性では、 圧倒的に上磯部の城の方が優れているといえます。 このように整理すると、2つの磯部の城についていくつかの推測ができます。私が 思いついたものを以下に並べてみます。 @能徳寺・御嶽神社の城は在郷領主の館程度のもので、戦闘向きではなかった。 そこで、乱にともなう戦に備えて、詰の城として上磯部の城が築かれた。 A「堀之内」や「二重堀」といった字名のみが手がかりの能徳寺・御嶽神社の城は、 そもそも実在していなかった。 Bどちらかが磯部城で、他方は『太田道灌状』にも登場しない無名の城である。 Cどちらかが磯部城で、他方は地点不明の溝呂木城である。 最後の推測については、一般に溝呂木城の所在地は厚木市内といわれていますが、 その確証はなく、厚木市内を所与とする必要はないだろうと点いうから発しています。 また、上磯部の城の近くに「溝呂木駐車場」というのがあったのでふと思いついたもの です。 |
|
比定地その1:御嶽神社。 | |
比定地その2:能徳寺。 | |
上磯部の土塁の説明版。 | |
上磯部の土塁。 |