小沢城(こさわ)
 別称  : なし
 分類  : 山城
 築城者: 金子掃部助か
 遺構  : 曲輪跡、堀跡
 交通  : JR相模線上溝駅よりバス
       「小沢」バス停下車徒歩10分


       <沿革>
           文明九年(1477)の長尾景春の乱に際して、景春方に与した金子掃部助が「在所小沢と
          申す所を要害に抱え」て立て籠もったことが、『太田道灌状』に記されている。この掃部助の
          小沢の要害がこの小沢城なのか、それとも北西向かいの小沢古城なのかについては結論
          をみていないが、一般的にこちらの小沢城が掃部助の城といわれている。同年、小沢城は
          道灌に攻められ、2ヶ月ほど持ち堪えたものの四月十八日に落城した。翌十年(1478)三月、
          掃部助は再び小沢城で挙兵したが、四月に小机城が落城すると自落したとされる。
           その後も金子氏は存続したものとみられ、『小田原衆所領役帳』によれば金子新五郎が
          小沢に役高を得ている。後北条氏時代には、確実に小沢古城ではなく小沢城の方が用い
          られていたと考えられている。


       <手記>
           小沢城は、相模川と小沢が形成する険しい河岸の突き出た先を利用した城です。南側を
          除く三方は急崖となっています。眼下には、近世の大山街道と相模川の久所の渡しがあり、
          交通の要衝であったことがうかがえます。
           城跡一帯は畑地や住宅地となっていて、遺構は明瞭ではありません。城山の東側面には
          「城坂」という細く暗い登城路があり、城の堀や切岸を利用した堀底道と思われます。城坂
          から城内に入る口のあたりは城山の頸部にあたり、一段低くなっているので堀切の跡と考え
          られます。
           『日本城郭大系』には小沢古城の方が「圧倒的に」要害性を備えていると書いていますが、
          私はそこまで言い切れるものではないと思います。三方から攻撃可能な小沢古城に対して、
          三方が急崖で攻めるには南側へ迂回せざるを得ない小沢城は、小沢古城に引けをとらない
          害性を有していると思われます。


           
 小沢城址遠望。
小沢城址現況。 
 小沢城址右岸の城坂(堀底道か)。


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