一夜館(いちや) | |
別称 : なし | |
分類 : 平山城 | |
築城者: 伊達氏 | |
遺構 : 土塁 | |
交通 : JR東北本線須賀川駅からバスに乗り、 「一夜舘」下車徒歩5分 |
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<沿革> 天正十七年(1589)に須賀川城主二階堂氏は伊達政宗に攻め滅ぼされたが、翌十八年 (1590)に政宗が小田原へ参陣した際に、矢田野義正を中心とする二階堂旧臣が大里城 に立て籠もって叛旗を翻した。伊達軍は力攻めを試みたものの、抵抗は激しく容易に落城 しなかった。籠城方の将の1人に明石田左馬介がいたが、伊達軍はその居館明石田館を 攻めるべく、対の城として一夜館を構築した。 結局、大里城は豊臣秀吉の奥州仕置まで持ち堪えたが、明石田館が落ちたかどうかは 定かでない。いずれにせよ、政宗が仕置により旧二階堂領などの所領を召し上げられた ことで、一夜館は役目を失い放棄されたものと推測される。 <手記> 館跡は一夜舘となっていて、車であれば園内まで乗り入れられます。伝承通りなら臨時 の陣城であり、技巧性は求められていなかったでしょう。園内は野球やサッカーでもでき そうなくらい広々とした芝生が広がっていて、付け根側に何かの石碑が建っています。 その裏手に土塁状の土盛りが見られ、園の南西隅にもやはり土塁状の段差が認められ ます。また園の北東隅にも土塁状の高まりがあり、これらが遺構であるとするなら、輪郭 については掴みやすいといえるでしょう。 ひとつ疑問なのは、主なき館城を攻めるのに、わざわざ陣城を設ける必要があるのか、 という点です。一夜舘という地名まで残っている以上は、一夜で城館を築くような理由が あったのでしょうが、その対象が明石田館であったか否かは、留保が要るのではないか と感じます。 |
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一夜舘公園のようす。 | |
園の背後の土塁状地形。 | |
同上。 | |
同上。 | |
園の北東隅の土塁状地形。 | |
明石田館方面を望む。 |