金山城(かなやま)
 別称  : 神益城
 分類  : 山城
 築城者: 畠山国清
 遺構  : 曲輪、土塁、堀
 交通  : 伊豆箱根鉄道駿豆線大仁駅徒歩40分


       <沿革>
           南北朝時代中期、足利尊氏が次男基氏を鎌倉公方として関東に派遣すると、足利一門の
          畠山国清が、補佐として関東管領および伊豆守護に任じられた。しかし、正平十四/延文
          四年(1359)に兵を率いて中央で戦った際、国清は立ち回りに失敗して政治的地位を大きく
          低下させた。帰国後の同十六/康安元年(1361)、関東諸将に弾劾された国清は失脚し、
          領国の伊豆で2人の弟ともに兵を挙げた。畠山勢は金山城・三津城修善寺城の3つの城
          に立て籠もったとされているが、いずれもこのときに築かれたと考えられている。
           同年十一月、基氏は将軍足利義詮の援軍も得て、国清討伐の軍を差し向けた。金山城
          と三津城はその年のうちに落城し、国清らは修善寺城で抵抗を続けた。翌十七年/貞治
          元年(1362)九月、国清はついに降伏し、反乱は終結した。金山城のその後については
          明らかでない。


       <手記>
           現在は城山と呼ばれる金山城跡は、標高は342mとさほどでもありませんが、その岩塊
          むき出しの山容で3城のなかでは最も目立つ山です。山頂からは伊豆の平野から富士山
          までの眺望が開け、今ではハイキングコースやロッククライミングの名所としても知られて
          います。
           公共交通機関を利用する場合は、狩野川沿いの南麓から登山道が整備されていて、
          当時の大手もこちらだったものと思われます。車であれば北麓から林道を上がり、葛城山
          との間の峠に駐車場と登山口があります。こちらは高低差の少ない尾根道で、大した苦も
          なく城域にたどり着けます。
           金山城は、主城域と北の支尾根、および南の支尾根の3つのエリアから成っています。
          それぞれとくに決まった名称はないようですが、ここでは便宜上それぞれ本城・北城・南城
          を呼び分けることにします。
           2つの登山道は、南城の付け根の鞍部でぶつかります。南城は広大な削平地に腰曲輪
          が付属しただけの単純な構造です。外側の造作は弱く、斜面もゆるくて防御力には疑問符
          です。
           鞍部から本城へ向かう途中の左手にもうひとつ西向きの細尾根があり、全体のバランス
          からみれば、ここも城域に含まれていても不思議はありません。ですが、登って先端まで
          歩いたものの、城の遺構と呼べそうなものは特段見当たりませんでした。
           登山道に戻ってもう少し上がると、両サイドに段築状の削平地が現れ、城跡を見慣れた
          人であれば、主城域に入ったことに気がつくでしょう。ここがもう本城で、その最上段には
          土塁に囲まれた主郭があります。この土塁は、敵の侵入方向である段築側には一切あり
          ません。どちらかというと山を削って均した残りを背後に壁として残しているような感じです。
          このように、山肌の削り残しを背にする削平の仕方は、城よりも寺院によくみられる手法
          です。したがって、金山城は岩山を修業の場とする山岳寺院を転用したもので、この主郭
          には本堂があったと考えるのが自然と思われます。修善寺上についても山岳寺院を利用
          したものとする説があり、私もそのように考えています。
           主郭から岩山先端の山頂までは、まだしばらくの道のりです。主郭背後には堀切の跡と
          思しき地形がみられますが、その先は岩石がごろごろとする自然地形が続きます。途中、
          岩を削った切通しなどの造作がみられますが、やむにやまれぬ謀反の最中にそんな手間
          をかける余裕があるはずもなく、やはり寺院の手になるものでしょう。実際の戦闘において
          も、山頂周辺が戦場になることはなかったと思われます。
           本城へ戻り、主郭下の段築から北へ向かうと、尾根伝いに林を抜けて北城へ移動でき
          ます。北城は南城よりもつくり込まれていて、はっきりとした土塁や切岸が残っています。
          とはいえ堀はみられず、やはり斜面が緩やかで、とても守りに堅いとはいえません。
           全体として、金山城は3城のなかで最も規模が大きいといえるでしょう。とはいえ、一見
          無敵の城壁のように思える岩壁は厳密には主城域に含まれておらず、他の方向からの
          攻撃に対しては、そこまで要害地形というわけではありません。地元の豪族にも見限られ
          た国清の手持ちの兵では、おそらくとても持ちこたえられる城ではなかったのでしょう。
          結果として、国清が最後に恃んだのは金山城ではなく、修善寺城でした。
           金山城については、国清の後も使われていたのかどうかという論点もあります。南北朝
          時代の山城には珍しく土塁がはっきりと残り、堀切の痕跡も見られることから、あるいは
          堀越公方などに取り立てられることがあったのかもしれません。ただ、後北条氏の城取り
          の好みからは外れているように思われるので、遅くとも同氏の時代には打ち捨てられて
          いたものと推測されます。

           
 金山城跡の城山を望む。
 左側のピークが南城。
山頂。 
 山頂からの眺め。
山頂へ向かう山道の途中にある岩の切通し。 
 主郭背後の堀切状地形。
主郭のようす。 
 主郭の土塁。
本城の段築状曲輪の土塁。 
 北城へ向かう尾根筋の土塁。
北城主郭の切岸。 
 北城主郭とその土塁。
北城主郭ひとつ下の曲輪。 
 北城先端側の段築。
南城の腰曲輪。 
 南城の主郭。
南城先端側の斜面。 


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