修善寺城(しゅぜんじ)
 別称  : 城山城
 分類  : 山城
 築城者: 畠山国清
 遺構  : 曲輪跡、土塁、石積み、井戸跡
 交通  : 伊豆箱根鉄道修善寺駅よりバス
       「遠藤橋」バス停下車徒歩30分


       <沿革>
           正平十四/延文四年(1359)、関東管領で伊豆守護の畠山国清は、将軍足利義詮
          および鎌倉公方足利基氏の命で軍勢を率いて上洛した。しかし、まもなく中央の政争
          に巻き込まれて立場を失い、兵をまとめて帰国した。事実上失脚した国清に対して、
          関東の諸将からは基氏に厳しい処分を求める訴えが相次ぎ、国清は鎌倉から追放と
          された。正平十六/康安元年(1361)、国清は領国の伊豆へ戻って反乱を企てたが、
          同調するものは少なく、三津城金山城・修善寺城の3城に籠城した。『太平記』にした
          がえば、修善寺城はこのときに築かれたものと読み取れる。
           国清の乱に対し、義詮・基氏双方から討伐軍が差し向けられ、物量で圧倒的に劣る
          国清勢は、三津城・金山城を自焼して修善寺城に集められた。しかし、翌正平十七/
          貞治元年(1362)九月に、降伏・開城した。国清はこのときに殺されたとも、没落して
          浪人となったともいわれる。
           史料上、これ以降修善寺城の名はみられない。明応二年(1493)、堀越公方足利
          茶々丸が伊勢宗瑞(北条早雲)によって滅ぼされた際、公方方の残党が修善寺城に
          籠り、宗瑞は柏久保城を取り立ててこれを攻めたと伝わる(茶々丸もいたかは不明)。
          また、天正十八年(1590)の小田原の役まで使用されていたとする説もあるようだが、
          確証はない。


       <手記>
           修善寺城は、修善寺温泉と修善寺駅の中間に張り出した半独立山に築かれた城
          です。山頂にテレビの中継アンテナがいくつも建っているので、よく目立つ山です。
          南麓の城山神社の両脇から、登山道が伸びています。山頂の中継所の保守点検用
          の道なので、重機も通れる幅と緩やかさがあり、意外と苦も無くたどりつくことができ
          ます。
           この登城路が最初に行きつく曲輪は、城内でおそらくもっとも広いものなのですが、
          なんとここにはかつて西麓からロープウェイが伸びいたそうで、今でも待合室となって
          いる駅舎跡と基壇のコンクリート平面が残っています。営業当時は飲食店も営まれて
          いたそうで、そうなるとどこまでが遺構でどこまでが造成されているのか判別が困難
          です。駅舎近くに石碑があるのですが、「城山園道」と読めるので、城跡というよりは
          かつての園地を示すもののようです。
           この曲輪の先端にはお社があり、その周囲には土塁があります。ただ、これも城の
          遺構かどうかはわかりません。社の裏手下には帯曲輪跡が認められ、これはさすが
          に城の遺構と思われます。
           前述のとおり、山頂にはいくつものテレビのアンテナが段々に建てられているため、
          目にする光景がどこまで旧状を留めているのかは不明です。段々の周囲には石積み
          が散見されます。古いものもあれば比較的新しいように見えるものもあり、なかには
          アンテナ建設にともなって積み直されたり、平場を広げて移されたりしたものもあると
          思われます。ただ、古いものであっても城の遺構とは限らず、近世以降につくられた
          可能性は捨てきれません。
           道は分かりづらいですが、北東尾根を少し下って進むと、もう1つ小さな石祠があり
          ます。祠の前は細長い平場となっており、周りを囲っていたと思われる石積みが一部
          残存しています。『静岡の山城 ベスト50を歩く』では、この石積みの写真をわざわざ
          載せて遺構であるかのように説明しています。ですが、ここには石段が伴っており、
          時代はともかく境内として積まれたものであることは明白です。そのほか、北東尾根
          周辺には削平地跡と思しき箇所がいくつか見受けられます。
           このように、主城域については戦後の造成と遺構の判別が難しいものの、周辺の
          曲輪跡のようすをみると、城としての造作が施されていることは間違いありません。
          ただ、石積みについては、南北朝期に城に石材を用いるという発想があったか疑わ
          しいということ、そもそも城の石積みとみるには不自然に感じられること、戦国時代
          以降に改修されたとするなら逆に技術が未熟にみえること、そして周辺に似たような
          石積みをもつ城がみられないことから、少なくとも城としての遺構ではないように思わ
          れます。
           この点、『静岡の山城』でも「既存の山岳寺院」を取り立てた可能性を指摘しており、
          私はその可能性はかなり高いのではないかと考えています。国清が反乱を起こした
          南北朝時代は、高い山の上の山岳寺院をそのまま転用した城がひとつのトレンドと
          なっていた時代でした。
           
           
 柏久保城下から修善寺城山を望む。
山頂(主郭跡か)のようす。 
 山頂の井戸跡。
山頂の平場脇の比較的古い石積み。 
 同上。
山頂南西側下の平場。 
アンテナが唯一立っていないので、当時のままの削平地跡か。 
 北東尾根の石祠と石積み(および石段)。
北東尾根の削平地群。 
 ロープウェイ駅跡のある曲輪のようす。
駅舎跡脇の石碑。 
 お社脇の土塁状地形。
お社裏手下の帯曲輪跡。 


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