伊豆木城(いずき)
 別称  : なし
 分類  : 山城
 築城者: 伊豆木氏か
 遺構  : 堀、土塁、曲輪、虎口
 交通  : 伊豆木陣屋より徒歩10分


       <沿革>
           応永七年(1400)の大塔合戦を描いた『大塔物語』に、守護小笠原長秀に従った
          伊那衆の1人として伊豆木美作守の名が見える。また、応仁の乱時の鈴岡城主
          あった小笠原政秀(政貞)の代官として、伊豆木尾張守の名も見られる。伊豆木城
          はこの伊豆木氏の居城であったとも考えられるが、同氏の出自も含め詳細は定か
          でない。


       <手記>
           江戸時代の交代寄合小笠原家の伊豆木陣屋背後にある小山が、伊豆木城跡
          です。陣屋跡から山裾を辿る道があり、その途中の墓地向かい付近から登り道が
          通じています。陣屋の裏手からも道がありましたが、私が訪れたときは立入禁止と
          ありました。
           伊豆木城は、横に並んだ3つの小ピークに跨っています。それぞれの間には堀切
          が穿たれ、東端および西端にも堀切が見られるものの、後者については防御の用
          に立つのか少々疑問な大きさです。3ピークとも高さにはほとんど差がなく、曲輪の
          広さは中=西>東といった感じです。
           どれが主郭か論じることにはあまり意味がないように思いますが、敢えて挙げる
          ならば、曲輪の規模から東端を除き、防御面で最も脆弱な西端を除外すると、中央
          の曲輪ということになるものと考えられます。ただ、当の城主にそうした主副の意識
          があったかは分かりませんが。
           城主については、伊豆木氏に応仁の乱ごろ以降の事跡が見られないことから、
          同氏の居城であったと断定するには至らないように感じます。伊豆木尾張守が仕え
          た鈴岡小笠原氏政秀は松尾小笠原氏に滅ぼされたものの、その松尾家も本家の
          小笠原長棟に駆逐され、その次男信定によって鈴岡小笠原家が再興されました。
          あるいは伊豆木氏は政秀と命運を共にして没落し、その後のいずれかの小笠原家
          によって、新たに築城されたか伊豆木氏の詰城を改修したものとも考えられます。
          ちなみに、麓の伊豆木陣屋は武田信玄に従って旧領に復帰した、松尾小笠原信貴
          の次男長巨によって造営されたものです。

           
 東端の堀切。
東端の峰の帯曲輪。 
 東端の曲輪の頂部。
東端の峰の腰曲輪。 
 その下の虎口状凹地形。
中央と東端の峰の間の堀切。 
 中央の曲輪のようす。
中央の曲輪の北端。 
 中央と西の峰の間の堀切。
西の曲輪のようす。 
 西の曲輪の切岸。
西端の堀切跡か。 


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