鈴岡城(すずおか) | |
別称 : なし | |
分類 : 平山城 | |
築城者: 小笠原宗政か | |
遺構 : 曲輪、堀、土塁 | |
交通 : JR飯田線駄科駅徒歩20分 | |
<沿革> 南北朝時代に小笠原宗政によって築かれたともいわれるが、確証はない。宗政は、同時代 初期の信濃守護小笠原貞宗の次男で、一説に隣接する松尾城は貞宗が築いたとされ、これ が事実であれば、宗政が鈴岡城を築いた可能性も充分に考えられる。 応永七年(1400)の大塔合戦を経て小笠原長秀が守護職を解かれると、長秀の弟の政康が 信濃守護を継いだ。嘉吉二年(1442)に政康が没すると、跡を長男宗康が継いだが、これに 長秀の兄長将の子持長が反発し、松尾城に拠った宗康と対立した。文安三年(1446)、持長は 漆田原の戦いで宗康を討ち取ったが、宗康は合戦に臨んで自身に万一のことがあれば、家督 を弟の光康に譲ると書き遺していた。府中小笠原氏と、松尾城に移った光康の松尾小笠原氏 の争いはなおも続くことになった。 宗康には遺児があり、成長して政秀と名乗ると、鈴岡城に拠って他の2家と比肩する勢力と なった。ここに、信濃守護職を巡る小笠原氏の内紛は、三つ巴の相克となった。 文明十二年(1480)、政秀は光康の子家長を攻め滅ぼした。幕府からも信濃守護として認め られたものの、府中小笠原氏麾下の諸国人の支持を得られず、持長の嫡孫長朝を養子として 府中家と和睦した。 明応二年(1493)、政秀は家長の子定基によって暗殺され、鈴岡小笠原氏は滅んだ。養父 殺害を受けて、府中の長朝は松尾城に攻め寄せたが、定基に撃退された。その後、鈴岡城の 動静は一時不明となる。 天文三年(1534)、定基の子貞忠は、長朝の孫長棟に松尾城を攻め落とされ甲斐国へ逃亡 した。小笠原家を統一した長棟は、次男信定を鈴岡城に入れた。 天文二十三年(1554)、武田晴信(信玄)が下伊那へ侵出すると、武田氏に身を寄せていた 貞忠の子信貴は鈴岡城攻めで功を挙げ、松尾城を奪還した。以後、鈴岡城は松尾城の支城と して命運を共にしたと考えられる。 <手記> 鈴岡城は、毛賀沢川を挟んで松尾城と隣り合わせとなっています。現在は、両城とも歩道橋 で結ばれ、それぞれ城址公園として整備されています。駐車場も双方に完備されているので、 どちらかに停めて両城跡を歩いて回るのがよいでしょう。 歴史的には松尾城が本城であった期間の方が圧倒的に長いですが、整備状況では鈴岡城 の方が優れています。二の丸には遊具も設置され、血なまぐさい過去をもつ城跡ながら今では チビッ子たちが元気よく遊びまわる親子憩いの公園となっているのは、なんとも興味深い対比 でした。 舌状の峰を堀切で順繰りに切断した松尾城に対し、鈴岡城は台地の角に本丸を設け、その 外側にL字型の二の丸が巡らされています。同様の構造は、武田氏時代に伊那の拠点として 存続した春日城や高遠城にも見られ、16世紀後半に改修を受けた可能性が考えられます。 また、本丸の松尾城側には出丸があり、間には堀切が穿たれていますが、両曲輪の輪郭線 をなぞると、もともとは1つの曲輪であったものと拝察されます。 外郭には喰い違い状の土橋があり、規模では松尾城の方が上ですが、技巧性では鈴岡城 に軍配が上がるように思います。天正十八年(1582)の武田氏滅亡まで、両城一体のように 併存していたのでしょう。 ちなみに、今では橋で簡単に松尾城と往来できますが、毛賀沢の渓谷はかなり深く、当時は お互い直接攻撃するのは困難だったでしょう。とはいえ、これだけ指呼の間で勢力を張り合う というのは、なかなか類例がないのではないでしょうか。ふと、ドイツのリーベンシュタイン城と シュテレンベルク城の話を思い出しました。こちらはあくまで伝説で、実際に隣同士で相戦った ことはないようですが。 |
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鈴岡城跡の説明板と標柱。 | |
本丸のようす。 | |
本丸の土塁跡。 | |
本丸から堀越しに二の丸を望む。 | |
本丸南辺の空堀。 | |
南辺の空堀東端のようす。 | |
本丸西辺の空堀。 | |
二の丸のようす。 | |
二の丸から堀越しに本丸を望む。 | |
二の丸南辺の空堀。 | |
二の丸南西隅を見上げる。 | |
二の丸西辺の空堀。 | |
的場と呼ばれる外郭。 | |
外郭外側の堀跡。 | |
的場から喰い違い状の土橋と その外側を望む。 |
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本丸と出丸の間の堀切。 | |
出丸のようす。 | |
出丸から松尾城跡を望む。 | |
松尾城山との間の毛賀沢を渡る橋。 |