寿能城(じゅのう)
 別称  : なし
 分類  : 平城
 築城者: 潮田資忠か
 遺構  : 櫓台か
 交通  : 東武野田線大宮公園駅徒歩10分


       <沿革>
           一般に、岩付城主太田資正の四男とされる潮田出羽守資忠によって、永禄三年
          (1560)ごろに築かれたとされている。これは、『潮田文書』に収められている同年
          十二月三十日付の資正から資忠宛の判物で、大宮・浦和一帯に進出するよう指示
          していることに拠っているが、寿能城築城に関する記述があるわけではない。
           永禄七年(1564)に資正の嫡男氏資が上杉氏から北条氏に寝返って父らを追放
          すると、資忠は兄氏資に従った。
           天生十八年(1590)の小田原の役に際し、資忠は嫡男資勝とともに小田原城
          籠城して討ち死にした。寿能城も、浅野長吉(長政)らの軍勢に攻められ落城した
          とされる。資忠の次男資政は城を脱出し、子孫は古河藩の家老となった。落城後、
          寿能城はそのまま廃城となったとされる。


       <手記>
           寿能城は、見沼に突き出た舌状台地を利用して築かれた城です。現在、主城域
          は宅地や団地になっていて、遺構はほぼ消滅しています。大手付近とされる寿能
          交番前には石碑が置かれています。また、本丸跡とされる寿能公園には、資政の
          子孫が城の櫓台跡を利用して元文三年(1738)に建てたとする資忠の墓碑があり
          ます。
           寿能公園の先には、享保十三年(1728)に開鑿された見沼代用水に、潮田氏に
          ちなんで命名された潮田橋が架かっています。橋を渡ると、寿能城の出丸跡という
          小丘があり、潮田橋の用水は主城域との間の堀切を利用したとも考えられます。
          当時の出丸は周囲を見沼に囲まれて、まるで浮島のようであったといわれていま
          すが、今では大和田公園の一角として市民の格好の散歩道となっているようです。

           
 寿能城址碑。
本丸跡の寿能公園にある潮田資忠墓碑。 
本丸櫓台の転用とすれば、貴重な遺構といえます。 
 
 潮田橋。
出丸跡の小丘を望む。 


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