聚楽第(じゅらくてい)
 別称  : 聚楽城、聚楽亭、聚楽屋敷など
 分類  : 平城
 築城者: 豊臣秀吉
 遺構  : 井戸跡
 交通  : 市バス堀川下長者町、大宮中立売バス停
       等下車


       <沿革>
           天正十四年(1586)二月から、羽柴秀吉(同年十二月に豊臣姓を拝領)の京の宿城として築城が
          開始された。翌年九月に完成し、秀吉は大坂城から居所を移した。翌十六年(1588)四月には、
          後陽成天皇が5日間にわたって行幸した。
           天正十九年(1591)、秀吉は関白職と聚楽第を甥秀次に譲り、文禄二年(1594)から自身の隠居
          城として伏見に築城を開始した。翌三年(1595)に秀次が高野山追放の上切腹を命じられると、
          秀吉は聚楽第を破却し、その建材は伏見築城に充てられた。
           聚楽第は亭(やしき)とはいうものの、実際には五層の天守をもつ立派な平城であり、その範囲は
          北は一条通、南は丸太町通、西は千本通、東は大宮通を境とするとされている。


       <手記>
           秀次処断の際に徹底して破却されたものと見られ、現在遺構と呼べるものはほとんど残っていま
          せん。大宮通と松屋町通、そして下長者町通に囲まれた東堀町の一角に、聚楽第東南隅にあった
          梅雨ノ井と伝わる井戸跡があり、現地に残る唯一の遺構といわれています。この井戸はかつては
          神社の境内にあり、近年まで生活用水として使われていたそうですが、神社は取り壊され、荒地に
          手動ポンプと案内板のみが残されています。
           また、大宮通と中立売通の角に立つ西陣ハローワーク建設の際に発掘調査が行われ、大宮通が
          聚楽第の東堀の端であったことが確認されました。

           


唯一の遺構と伝わる井戸跡。


BACK