伏見城(ふしみ)
 別称  : 桃山城、木幡山城
 分類  : 山城
 築城者: 豊臣秀吉
 遺構  : 堀、曲輪跡
 交通  : JR奈良線桃山駅または京阪宇治線桃山南口駅
       徒歩10分


       <沿革>
           文禄元年(1592)、豊臣秀吉は自らの隠居城として伏見指月丘に築城を開始し、城は同三年(1592)
          に一応の完成をみた。しかし、慶長元年(1596)の大地震で城は全壊し、多数の死傷者を出した。
           秀吉は即座に伏見城の再建に乗り出し、今度は指月丘北東の木幡山に縄張りを行った。この木幡山
          の城が、現在一般にいわれる伏見城である。工事は急ピッチで進められ、縄張りからたった3ヶ月弱で、
          本丸が完成している。翌慶長二年(1597)には天守と殿舎が完成し、秀吉が入城した。
           工事はなおも続けられたが、秀吉は翌慶長三年(1598)に、この伏見城で没した。秀吉没後、遺児の
          秀頼は翌四年(1599)に大坂城へ移り、伏見城へは対岸の支城であった向島城から徳川家康が入った。
          その家康も、半年後には大坂へ移ったため、伏見城下は一時廃れたといわれる。
           慶長五年(1600)、上杉征伐へ向かった家康に対して石田三成らが挙兵し、(広い意味での)関ヶ原の
          戦いが幕を開けた。伏見城には、鳥居元忠を主将に、松平家忠、内藤家長ら1800人が駐留していた。
          西軍は一度は開城を勧告したものの、元忠がこれを撥ねつけると、宇喜多秀家・小早川秀秋・島津義弘
          ・長宗我部盛親ら4万といわれる大軍で城を囲んだ。城兵は寡兵ながら奮戦し、10日以上持ちこたえた。
          しかし、長束正家率いる甲賀衆が松の丸に火を放つと、城兵は追い詰められ、ついに落城した。城はこと
          ごとく焼け、元忠は天守で自害した。
           関ヶ原戦後の慶長七年(1602)、家康は伏見城の再建に取り掛かった。同年末に一応の完成をみて、
          家康が入城した。翌八年(1603)、家康はこの伏見城で将軍宣下を受けた。同十年(1605)には、家康の
          子秀忠が同じく伏見城で将軍宣下を受け、このとき本丸の殿舎が増築された。同十二年(1607)には、
          家康の居城として駿府城が築かれ、伏見城の作事は中断された。
           大坂の陣以降、しばらくは二条城が儀典用、伏見城が居住用として利用されていた。しかし、豊臣家
          の滅亡と江戸幕府の確立による戦略上の価値逓減は免れず、元和五年(1619)に伏見城廃城が決定
          された。その後漸次解体工事が進められたようだが、同九年(1623)、徳川家光が伏見城で将軍宣下を
          受けた。この家光上洛を最後に伏見城は完全に廃城となり、天守が二条城へ移されたほか、櫓や建材
          は全国各地の城へ転用された。
           なお、廃城後、城跡一帯に桃が植えられたことから、城山一帯は後に桃山と呼ばれるようになった。


       <手記>
           伏見城址には、後に明治天皇陵ならびに昭憲皇太后陵が造営され、城跡一帯が宮内庁の管轄下と
          なっています。そのため、史跡指定外の上、山内を自由に歩き回ることはできません。天皇陵越しに、
          本丸跡を遠く眺めるよりほかありません。本丸北西の、徳善丸の一角に復興天守がありますが、耐震
          基準を満たしていないとかで、現在入ることはできません。
           このように、城跡というより森と化しているため、桃山時代の栄華を偲ぶのは困難といえます。西側
          から登る参道脇には、地下工事で見つかった城の石材が展示されています。
           天下人の隠居城ですから、緩やかな丘陵地を想像していたのですが、実際に訪れてみると、完全に
          山城であることを思い知らされました。京阪宇治線桃山南口駅から向かったところ、心臓破りといえる
          長い長い石段を登る羽目になりました。天皇陵からの眺めは、天守など必要ないくらいの絶景でした。

           
 城跡に営まれている明治天皇陵。
 背後の森が本丸跡。
参道脇に展示されている伏見城石材。 
 本丸周辺(明治天皇陵)からの眺望。


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