河後森城(かごのもり)
 別称  : なし
 分類  : 山城
 築城者: 渡辺氏か
 遺構  : 曲輪、石垣、土塁、堀、虎口、溜池
 交通  : JR予土線松丸駅徒歩20分


       <沿革>
           天文年間(1532〜55)後期ごろに築かれたと推定されているが、発掘調査では
          15〜16世紀にかけての造作が見つかっている。築城主など詳しい経緯は不明で
          あるが、永禄年間(1558〜70)までには、渡辺(河原渕)教忠が城主となっていた。
          渡辺氏以前には河後森氏が存在したともされるが、詳細は定かでない。教忠は
          土佐一条氏2代房基の子東小路教行の次男で、5代当主一条兼定の命で伊予
          西園寺氏重臣渡辺政忠の養子となった。
           教忠は西園寺十五将の筆頭と称されるほどの有力な武将であったが、兼定が
          大友氏と結んで伊予進出を図ると、実家と主家の間で去就を明らかにしなかった
          ため、永禄十年(1567)に西園寺公広に攻撃された。このとき河後森城で戦いが
          あったかは定かでないが、教忠は人質を差し出して降伏した。
           天正三年(1575)に長宗我部元親が一条氏を滅ぼすと、河後森城は長宗我部
          氏に対する最前線となった。教忠は長宗我部軍の侵攻を食い止め、「河後森の
          若城主」と呼ばれるようになったという。しかし、同八〜九年(1580〜81)に教忠
          の近習の芝一覚(源三郎、政景)が長宗我部氏に通じ、月見の夜に乗じて城を
          奪った。
           芝氏がそのまま河後森城主に収まったとみられるが、天正十三年(1585)の
          羽柴(豊臣)秀吉による四国攻めによって、長宗我部氏は土佐一国のみを安堵
          された。南予地域は戸田勝隆に与えられ、一覚は勝隆によって城を逐われた。
          勝隆は、客将としていた安見右近を3000石で河後森城主に封じた。 文禄三年
          (1594)に勝隆が嗣子なく没すると、その遺領は藤堂高虎に与えられた。高虎は
          中世丸串城跡に近世宇和島城を築いたが、このとき河後森城の天守を月見櫓
          として移築したと伝わる。これが正しければ、河後森城には天守建築があり、
          それはおそらく戸田氏時代に築かれたものと推測される。
           慶長十三年(1608)、高虎と入れ替わりで富田信高が安濃津から宇和島へ
          加増転封となった。しかし、同十八年(1613)に改易となり、翌十九年(1614)に
          伊達政宗の庶長子秀宗が10万石で宇和島藩を立藩した。このとき、付家老の
          桑折氏が河後森城主に任じられたとされる。富田氏時代の河後森城主について
          は伝わっていない。その後ほどなくして、一国一城令によって廃城となったものと
          考えられている。


       <手記>
           河後森城は、広見川沿いの独立山塊全体に展開して築かれている城です。
          馬蹄形に尻尾が生えたような形で、最高所の本丸のほか、大きく古城・新城・
          西曲輪群の4つの部分から成り立っています。車の場合は南麓の風呂ヶ谷脇に
          駐車場があり、鉄道の場合は天満神社裏手から登れるようです。
           まだ全域ではないものの、かなり発掘調査と史跡公園化が進められていて、
          とくに西曲輪群先端の西第十曲輪は、現代ではもっともよく整備された城跡の
          例といえると思います。ここには礎石の地表復元のほか、建物1棟と模擬の門、
          そして土塁の一部が建てられています。下をのぞくとまさに発掘調査中だった
          ので、こちらもいずれ整備されるのでしょう。
           ここから尾根筋にひな壇状の曲輪群を抜けると、本丸に到達します。本丸も
          発掘調査が行われていて、大型の殿舎建築はあったとみられているものの、
          伝承にあるような天守建築が存在したかは確定できなかったようです。また、
          本丸虎口からは石垣が検出されていて、今はその外側に模擬の石垣が設け
          られています。
           本丸から西曲輪群と反対側の尾根を下っていくと、深い堀切を経て古城へと
          到達します。この堀切には門があり、これを出て降りて行くと、天満神社裏手
          につながっているようです。門は、中世と近世で少し違った場所にあったことが
          発掘調査の結果明らかになっていて、後者のものが推定復元されています。
          堀切の先の古城の曲輪も礎石復元されていて、とくに塀庇の跡が検出されて
          いるのは興味深いところです。その先は、残念ながら私の訪城時には未発掘
          でしたが、一応先端までは行けました。浅い堀切の先に段築があり、その先
          にもう2つ曲輪があります。
           古城の付け根から尻尾のように伸びた支峰が新城で、こちらも未発掘でした
          が、樹木は伐採されていました。こちらは、新城という名前とは裏腹にあまり
          精巧な工夫は見られず、付け根を切る2〜3条の堀切と、上下2段程度の曲輪
          が認められます。おそらくここは最後に拡張された「新城」には違いないものの、
          戸田氏以降の改修はほとんど受けなかったのだろうと拝察されます。
           全体としてみると、おそらく最初期は馬蹄先端の古城のみが城域だったもの
          と推測されます。そこから現在の本丸、次いで西曲輪群、そして最後に新城と
          拡張されたのでしょう。
           ちなみに、河後森城は続名城100選に選定されているそうです。たしかに、
          規模も大きく要衝にあり、近世に改修も受けていて遺構の残存状況も良好です
          が、はたして名城なのかというと、私にはちょっと疑問です。

 松野町役場から河後森城を望む。
西第十曲輪の復興門。 
 西第十曲輪の復興建物と礎石復元部分。
西第十曲輪の復興土塁。 
 西第十曲輪先端の堀切。
西第十曲輪下の発掘調査現場。 
 西第十曲輪からひな壇状曲輪群を望む。
西第十曲輪俯瞰。 
 西第五曲輪とその先。
本丸下の堀切。 
 本丸のようす。
本丸虎口跡。 
 本丸虎口下の土塀跡と階段口。
本丸から西第十曲輪(右手)と新城(左手奥)を望む。 
 本丸からの眺望。
本丸下の階段。 
コンクリート部分は当時の岩盤掘削痕の地表復元。 
 古城付け根の堀切と復興模擬門。
堀切脇の古城lの曲輪。 
 同曲輪の塀庇跡。
同曲輪先の堀切跡。 
 古城の段差。
古城先端手前の曲輪跡。 
 古城先端の曲輪。
新城の土塁。 
 新城付け根の堀切群。
新城頂部の曲輪。 
 新城から第十曲輪(左手)と本丸(右手奥)を望む。
風呂ヶ谷の溜池。 
 おまけ:山麓の松丸街道。


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