宇和島城(うわじま)
 別称  : 板島城、丸串城、鶴島城
 分類  : 平山城
 築城者: 西園寺氏か
 遺構  : 天守、門、曲輪、石垣、井戸
 交通  : JR予讃線宇和島駅徒歩15分


       <沿革>
           天慶四年(941)、藤原純友の乱鎮定の功により伊予国宇和郡を与えられた橘遠保に
          よって砦が構えられたのが始まりとされるが、伝説の域を出ない。
           また、13世紀に西園寺家を興した西園寺公経によって築かれたともされるが、中央で
          権勢をふるった公経が自ら伊予へ足を運んだとは考えにくい。実際には、南北朝時代の
          14世紀に西園寺家庶流の西園寺公良・公俊父子が宇和郡へと下向し、大名化していく
          過程で築かれたものと推測される。
           天文年間(1532〜55)には、宇和島の北、高光家藤の土豪家藤監物(信種)が城主を
          務めていた。天正三年(1575)、監物は本拠である高光の道免城に戻った。代わって、
          西園寺氏当主西園寺公広の弟で西園寺十五将の1人である西園寺宣久が宇和島南西
          の亀ヶ淵城から移り、「板島殿」と呼ばれた。
           天正十三年(1585)に豊臣秀吉が四国を平定すると、伊予一国は小早川隆景に与え
          られた。板島城には隆景家臣持田右京が入ったが、2年後の同十五年(1587)に隆景は
          筑前へ転封となった。
           板島城は大洲城主となった戸田勝隆の持ち分となり、戸田与左衛門信種が入城した。
          同年、勝隆の治政に不満を抱いた領民が一揆を起こし板島城や黒瀬城を襲った。撃退
          には成功したが、旧領主の公広は勝隆に誘殺された。勝隆の時代に、宇和島城は近世
          城郭の体裁を整えられたとされる。
           文禄三年(1594)に勝隆が嗣子なく没して戸田家が改易されると、藤堂高虎が宇和郡
          7万石を与えられた。高虎は板島城を居城として本格的に改修し、、河後森城の天守を
          月見櫓として移築したと伝わる。
           慶長十三年(1608)、高虎は安濃津へ転封となり、入れ替わりで安濃津から富田信高
          が10万石で板島藩主となった。しかし、同十八年(1613)に信高は改易となった。表向き
          の理由は8年前に罪人を匿った件であったが、実際は大久保長安事件に連座したもの
          といわれている。
           翌慶長十九年(1614)、仙台藩主伊達政宗の庶長子である伊達秀宗が、10万石にて
          板島に別家を興した。板島を宇和島と改名したのは秀宗といわれるが、高虎とする説も
          ある。2代藩主宗利によって大改修が行われ、天守が高虎時代の望楼式から、今日に
          見る層塔式天守に改められた。
           宇和島伊達家は9代を数えて明治維新を迎えた。維新後も、城は伊達家の所有物で
          あったが、戦後の1949年に11代伊達宗彰によって宇和島市に寄贈された。ちなみに、
          8代藩主伊達宗城は、いわゆる幕末の「四賢侯」の1人に数えられる。

       <手記>
           四国西岸は複雑なリアス式海岸になっていて、宇和島はその最奥の良港の1つという
          ことで、古くから開発されてきた地域のようです。宇和島城は宇和島港に臨む独立小丘
          に築かれていて、当時北西麓は海でした。
           かつての大手口には丸之内和霊神社がありますが、ここから登ることはできません。
          公共交通機関で来るにしても自家用車にしても、おそらく北東麓の登城口から入って、
          南麓の上り立ち門に下城するというコースをとることになると思います。北東麓の登城口
          はかつての三の丸にあたるところで、長屋門が建っていますがこれは城のものではなく、
          家老桑折家の屋敷門を移築したものです。
           山城部の縄張り自体はそこまで凝ったものではありませんが、やはり四国にもともとは
          なかった高石垣を見ると圧倒されます。現存12天守の宇和島城の天守は、小ぶりでどこ
          となくずんぐりした印象ですが、これは上述の通り望楼式を層塔式に改めたことによるよう
          です。平和な時代の天守らしく、急勾配なのが当たり前の階段も、かなり緩やかに作られ
          ています。
           私が訪れたときは、長門丸や代右衛門丸は修復中らしく入ることができませんでした。
          しばらくすれば美しい穴太積みの石垣が見られるようになるのでしょう。代右衛門丸の下
          には、歩道を挟んで腰曲輪跡と思しき削平地があり、おそらく中世の名残と思われます。
          そして式部丸の脇を通って下りた先の上り立ち門は、天守と並ぶ宇和島城の貴重な現存
          建築遺構です。
           宇和島城というと、有名なのが高虎の手によるとされる「空角の経始(あきかくのなわ)」
          でしょう。これは、今も道路として残る城の外郭線を不等辺五角形にして、敵に四角形と
          誤認させることで、残る一辺から補給や脱出を図ることができるというものです。実際に、
          江戸幕府が隠密に各地の大名の城を調査させたところ、宇和島城については「四方の間
          合わせて十四町」との報告を受けたそうです。
           「築城の名手」藤堂高虎ならではの高度な縄張り技術ともてはやされるところですが、
          私はこの「空角の経始」には懐疑的です。敵がしっかり包囲しようと思ったら、まず陸地の
          辺を見落とすということはないでしょう。なので、空くとしたら、海沿いの辺ということになり
          ます。ですが、当時の縄張り図を見ても、海側にある2辺のどちらとも陸地から十分視認
          可能です。したがって、それなりの兵力で囲えば、五角形であることに気づかないなどと
          いうことはあり得ないように思うのです。
           おそらくは、早とちりな忍者がうっかり四角形と思いこんでしまったものを、後世の人が、
          「これは高虎がそういう風に作ったに違いない!高虎SUGEEE!」って感じで勝手に忖度
          したものなんじゃないかな、と個人的には考えています。
           ちなみに、北東登城口脇にある宇和島名物鯛茶漬けのお店へ立ち寄ったのですが、
          大将はじめスタッフみなフレンドリーで対応がよく、気持ちよい食事ができるのでおすすめ
          です。

 宇和島城天守。
二の丸から本丸石垣越しに天守を望む。 
 天守から本丸と宇和島港を望む。
天守より宇和島市街を望む。 
 本丸の櫛形門跡。
二の丸建物礎石。 
 三の門跡。
雷門跡。 
 井戸丸の井戸。
井戸丸の石垣。 
 北東麓の移築長屋門。
雷門下の石垣。 
 代右衛門丸の石垣。
同上。 
 代右衛門丸下の削平地。
 中世の腰曲輪跡か。
式部丸石垣。 
 上り立ち門。
大名庭園の天赦園と天守(右奥)。 


BACK