山形城(やまがた)
 別称  : 霞城、霞ヶ城、吉字城
 分類  : 平城
 築城者: 斯波兼頼
 遺構  : 石垣、曲輪、水濠、土塁
 交通  : JR奥羽本線山形駅徒歩5分


       <沿革>
          延文元年(1356)、羽州探題に任じられた斯波兼頼によって居館が営まれたのがはじまりと伝える。
         兼頼の子孫は最上氏を名乗り、村山地方に根を張った。戦国初期には、近隣の伊達氏や一族の天童氏
         などとの争いから一時衰退していたが、最上義光の時代に村山地方をほぼ平定し、戦国大名としての地
         盤を確立した。
          義光は、奥州惣無事令を出した豊臣秀吉に逸早く臣従し24万石を安堵された。この頃までの山形城は、
         城というより館程度のものであったと推定されている。文禄元年(1592)頃から、近世城郭としての改修
         がはじめられた。
          慶長五年(1600)の関ヶ原の戦いで東軍についた義光は、長谷堂城の戦いで西軍の上杉軍と激戦を
         繰り広げた。長谷堂城から山形までは目と鼻の先であったが、このとき山形城周辺に深い霞が立ち込め、
         上杉軍の陣営から城の位置を確認することができなかったとされる。山形城の別称霞城は、この出来事
         に由来している。
          上杉防衛線で功績を挙げた義光は、戦後最上・庄内地方を与えられ一躍57万石の大大名に成長した。
         これを機に、実高百万石ともいわれた山形藩の蕃府として山形城はさらに拡張され、天守こそ上げられ
         なかったものの、三の丸までの城内面積では江戸城大坂城にも匹敵する、奥州最大の輪郭式城郭と
         なった。
          しかし、最上家はお家騒動によって3代で改易され、伊達氏や佐竹氏といった有力外様大名と近接して
         いることから、その後は鳥居家2代、保科正之、松平直基、奥平松平忠弘、奥平家2代、堀田正仲、松平
         直規、奥平松平家2代、堀田家3代、大給松平乗佑、秋元家4代と譜代の雄が目まぐるしく入れ替わった。
         その都度禄高は減少する傾向にあり、秋元氏の後に最後の藩主家として水野氏が入ったときの禄高は
         5万石であった。ただでさえ日本有数の面積を誇る城だったため、その維持管理は困難を極め、水野氏が
         入封したころには、かつての三の丸武家屋敷地には長屋と町屋が点々と混在するだけの状態となった。
          明治維新後、本丸は埋め立てられ陸軍駐屯地が置かれることになったが、戦後二の丸までが霞城公園
         として整備された。この頃までは三の丸の濠も残っていたようだが、市街地化の波と共に三の丸は土塁の
         一部を残すのみとなった。
          昭和六十一年(1986)に国指定史跡となったのを機に復元整備計画が進められ、平成三年(1991)には
         二の丸東大手門が木造復元された。また、現在本丸の発掘調査が行われ、本丸一文字門の復元計画が
         進められている。


       <手記>
           東北の近世城郭には比較的良好に残っているものが多いのですが、その中でも山形城は地味ながら
          見ごたえのある史跡だと思います。山形駅から線路に沿って北に向かうと、江戸城城門にも匹敵すると
          いわれる復元二の丸東大手門が、眼前に威容をたたえます。門をくぐると、これまた凛々しい最上義光
          の銅像があり、その奥には現在発掘復元中の本丸一文字門跡の様子が広がります。この義光公像は
          馬の脚2本だけで立っており、銅像の技術的に非常に難しく繊細なものなのだそうです。
           一文字門跡を眺めたら、一旦南大手門跡から外に出て、二の丸濠に沿って西から北へと半周してみま
          しょう。濠の広さや西不明門跡の古い石垣などが楽しめます。
           その他にも、山形交通バスターミナルを東へ少し行ったところにある歌懸稲荷神社の裏手に、三の丸の
          土塁が残っています。長さはないものの、高く隆々とした土塁です。


           
 二の丸東大手門。
東大手門と最上義光公像。 
 復元中の本丸一文字門跡と大手橋。
 二の丸の水濠と土塁。 
 二の丸西不明門跡。
二の丸北不明門跡。 
 三の丸の土塁。
歌懸稲荷神社裏手より三の丸土塁を望む。 


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