福島城(ふくしま) | |
別称 : 杉目城、杉妻城、大仏城 | |
分類 : 平城 | |
築城者: 伊達氏か | |
遺構 : 土塁 | |
交通 : 福島駅徒歩10分 | |
<沿革> 伊達郡の国人・伊達氏によって築かれたとみられるが、詳しい経緯は不明である。江戸時代 末期に編纂された『信達一統志』には、治承年中(1177〜81)に杉目太郎行信が居住していた とある。行信は信夫庄司・佐藤基治の子といわれ、文治五年(1189)の奥州合戦に際し源義経 の身代わりとなって討たれたとする伝説があるが、裏付けはない。 応永二十年(1413)、伊達持宗(松犬丸)が鎌倉公方・足利持氏に反乱を起こし、懸田城主の 懸田定勝と共に大仏城へ立て籠もった(伊達松犬丸の乱)。鎌倉府方は大仏城を攻め落とした ものの、持宗は幕府に帰順したため、後に大仏城を回復したものとみられる。 天文十八年(1548)、6年にわたった伊達稙宗・晴宗父子の争い(天文の乱)が終結すると、 大仏城には伊達家重臣・牧野相模が入り、このころまでに杉目城(杉妻城)と改名されたものと みられている。永禄八年(1565)に輝宗が家督を継ぐと、晴宗は杉目城を隠居城とし、牧野氏を 継いでいた中野宗時の子・久仲は出羽国長井郡の小松城主となった。 天正五年(1577)に晴宗が没すると、その末子(六男)にあたる直宗が生母の久保姫と共に 杉目城に残り、杉目氏を称した。杉目直宗は同十二年(1584)に嗣子なく没したが、久保姫は 城に留まって杉目御前と呼ばれたという。 天正十九年(1591)、伊達政宗が岩出山へ転封となると、信夫郡は蒲生氏郷の所領となり、 与力として木村吉清に与えられた。吉清は、豊臣秀吉から岩出山を含む大崎・葛西氏の旧領 30万石の大名に抜擢されたが、葛西大崎一揆を誘起して改易されていた。はじめは大森城に 入ったが、文禄元年ないし二年(1592〜93)に杉目城へ移り、福島城と改称して信夫郡5万石 を治める近世城郭に改修した。 慶長三年(1598)、蒲生家に代わって上杉景勝が入封すると、水原親憲ついで本庄繁長が 福島城主となった。同五年(1600)の関ヶ原の戦いでは、白石城を抜いた伊達政宗が本戦後 の十月に信達平野へ侵攻し、福島城を攻撃したが落とすことはできなかった。翌六年(1601) 四月、上杉家の処分が未だ決まらない状況下で、政宗は再び福島城攻めに出兵し、城の北の 松川で激しい合戦となった(松川の戦い)。戦の経過や時期などには諸説あり、双方とも戦果を 強調しているが、結果として上杉氏は再び福島城を守り抜いている。 寛文四年(1664)、上杉家が30万石から15万石に減俸され信夫郡を失うと、福島城は廃され 天領となった。延宝七年(1679)、大和郡山藩主本多忠国が15万石で入封し、福島藩が成立 した。しかし、3年後の天和二年(1682)に姫路藩へ転出し、再び天領となったため、福島城の 再興はされなかったものとみられる。 貞享三年(1686)、老中・堀田正俊の長男・正仲が10万石で山形から移封され、再び福島藩 が興された。堀田家のもとで福島城の普請が始まったが、2代で転出し、本格的な工事は元禄 十五年(1702)に板倉重寛が信濃坂木藩から3万石で入封してから進められた。以後、板倉家 が12代を数えて明治維新を迎えた。 <手記> 福島城は阿武隈川がカーブする外側の沖積地に築かれており、南西を支流の荒川が洗って います。また、今は信夫山の北を流れる松川は、当時は山の南麓を通っていたといわれ、城は 三方を河川に囲まれる要害の地にあったようです。 城域の大部分は福島県庁をはじめとする公官庁の敷地となっており、遺構はほとんど残って いません。県庁から北に延びる並木道に大手門跡の、知事公館と大型駐車場の間に本丸跡の 石碑が建っています。唯一といえる遺構は県庁南西の土塁で、西門南土手と呼ばれているよう です。また、本丸隣の「殿中」という区画が紅葉山公園となっていて、二の丸御外庭という名称 の庭園跡が名残を留めています。 |
|
大手門跡。 | |
本丸跡の石碑。 | |
二の丸御外庭跡の紅葉山公園。 | |
同上。 | |
板倉神社。 | |
西門南土手の土塁。 | |
同上。 | |
天神橋から福島城跡を望む。 |