上溝城(かみみぞ) | |
別称 : 丸山城 | |
分類 : 平山城 | |
築城者: 横溝氏か | |
遺構 : なし | |
交通 : JR相模線上溝駅徒歩5分 | |
<沿革> 地元では丸山城の名で伝承が残り、横溝五郎太夫なる人物が正応年間(1288〜92)ごろ に城主だったと伝えられる。横溝五郎太夫が実在したかは不明であるが、承久三年(1221) の承久の乱における幕府軍の従軍者に横溝五郎の名がみられる。また、『吾妻鏡』の貞応 元年(1222)七月の項に、小笠懸の射手として、横溝五郎資重と横溝六郎義行の名が登場 する。横溝五郎は、正元元年(1259)に筑後国高三潴村の地頭に任じられ、現地に下向した とされる。この横溝五郎と五郎太夫との関連を指摘する向きもあるが、両者は1世代以上の 隔たりがあることに留意せざるを得ない。そもそも、横溝氏の本貫地についても詳らかでなく、 一説には現在の滋賀県東近江市横溝町の出身とされる。逆に、五郎太夫から時代を下った 元弘三年(1333)五月十六日、鎌倉幕府打倒を目指す新田義貞勢と幕府軍が関戸(東京都 多摩市)で戦ったが(関戸の戦い)、このとき幕府軍の大将北条泰家を守って「横溝八郎」が 討ち死にしている。この横溝八郎についても、素性は明らかでない。 上溝はこのほかに、いわゆる「小栗判官」伝説の故地ともいわれる。小栗判官の妻となる 照手姫の父横山氏の館がこの地にあり、姫自身もここで生まれたとするものである。しかし、 小栗判官伝説そのものが明らかに史実性もリアリティもない作り話であり、横山氏の居館が あったとする信憑性は薄い。照手姫の父は、一般には横山大膳とされ現在の藤沢市西俣野 に館の伝承地がある。他方で、上溝のバージョンでは横山将監としている。いずれにせよ、 武蔵七党の1つ横山党の宗家横山氏は、建暦三年(1213)の和田合戦で滅亡したとされて おり、小栗判官伝説の室町時代まで横山氏が残っていた可能性は低い。 <手記> 上溝城は、現在の上溝中学校とその隣の横山公園のあたりにあったといわれています。 現地には、とくに城跡を示すようなものはありません。すっかり開発されているので、遺構は おろか旧地形をうかがうのも困難です。ただ、横山公園から中学校にかけて、南向きの舌状 台地となっていることは現況からもうかがうことができ、この先端部を利用した城館があった 可能性は、十分に考えられます。 (旧)相模原市にはよほど面白い言い伝えがないのか、上溝周辺はとにかく照手姫伝説を 前面に押し出しています。横山公園北西の横山小学校西麓に、姥川の水源地の1つとされる 静かな沢谷戸があり、そこに立派な「照手姫遺跡の碑」が建てられています。横山公園麓の 日金沢(ひがんさわ)橋からこの石碑まで、姥川沿いに森林浴の楽しめる散策路が整備され ています。この散策路の中途に立つ周辺イラストマップに、「上溝城跡」と書きこまれており、 これが私が見た限り現地で唯一の城跡に関連するものといえます。イラストマップに示されて いる場所は、公園内の中学校に隣接する築山なのですが、そこへ行っても城跡については 触れられておらず、遺構らしきものも見当たりません。 横山公園の西隣には、照手姫が地面に突き刺した杖が根を張った「逆さ榎」があったとされ る榎神社なるものまであります。ですが、上溝の照手姫伝説は十中八九「横山」の地名から 短絡的に発生したものと思われます。「横山」の他にも、現地の説明板にある照手姫の乳母 (おそらく姥川から敷衍)の日野金子(たぶん日金沢からの創作)といった言葉遊びのような 箇所が見て取れます。もう1つの横溝五郎太夫の伝承についても同じことがいえ、おそらくは 「横山」と「上溝」から1字ずつとった横溝という姓を、誰かが吾妻鏡のなかに見つけて城跡と 結びつけたのでしょう。そうでなければ、横溝という苗字がこの地から生まれる蓋然性があり ません。 ただ、だからといってこの地に城館がなかったとはいいきれません。周辺はたしかに横山党 の勢力圏内でしたし、麓に姥川の源流域を望む崖端にある比定地は、鎌倉時代以前の開発 領主にとっては好立地といえます。したがって、この地に横山党関連の城館があったとしても なんら不思議ではありません。実際、上溝は横山党一族の矢部氏館と田名氏館の間に位置 しています。なので、個人的にはここには横山党関連の城館があったけれども、和田合戦の 後に廃れてしまい、伝承も戦国時代までには失われてしまったため、江戸時代に入って人気 を博した小栗判官伝説を取り入れて地域の歴史を補ったのではないかな、と推測しています。 |
|
横山公園内の築山山頂のようす。 | |
照手姫遺跡の碑。 |
|
榎神社。 |