鼎館(かなえ)
 別称  : 不叶館、米谷古館、鼎城、米谷古城、旧米谷城
 分類  : 山城
 築城者: 亀掛川氏か
 遺構  : 曲輪跡、切岸か
 交通  : 三陸沿岸道路登米東和ICから車で5分


       <沿革>
           別称の不叶館(読みは同じ)は、何度築城しようとしても崩れてしまい、完成させることが
          叶わなかったからとされる。一般に米谷城の前身とされ、一説には奥州亀掛川氏初代と
          される亀掛川胤氏の曽孫・盛政が築いたといわれるが、確証はない。米谷城主米谷氏は
          亀掛川氏の分流とされるが、鼎館のその後も不明である。


       <手記>
           米谷市街の東には三つ又の峰が延びていて、北から米谷城、大膳館、鼎館があったと
          されています。館跡とされる秈荷(ぜんか)神社は、南北朝時代に亀卦川胤明が主君葛西
          宗清の冥福を祈って稲荷社を勧請したのがはじまりだそうです。今ではその名も「銭金山
          大明神」と称し、参拝すると黄金(銭)が貯まるといわれています(残念ながら私にはまだ
          御利益がありませんが笑)。
           神社境内の東側にはもう1段高い平場があり、ここが主郭跡とみられ標柱が建てられて
          います。頂部平場の周囲には切岸状地形が巡り、あるいは当時の遺構とも思われます。
          鼎館には、上述の通り不叶館の別名と伝承がありますが、私はこれに懐疑的です。城山
          はさして要害地形というわけでもなく、ここに城館を築くことが物理的に不可能だったとは
          とても思えません。「かなえ」に「叶」でなく「不叶」の字が充てられているのも不自然で、
          現に遺構が見られる以上、根拠薄弱と言わざるを得ないでしょう。
           周囲に「かなえ」という地名が見られないので、「鼎館」の由来は不明ですが、あるいは
          三つ又の地形をして鼎の3本足になぞらえたのかもしれません。とすると、米谷城は3つの
          峰に跨る規模の城館群であった可能性も考えられます。

           
 秈荷神社参道口の標柱。
秈荷神社本殿を望む。 
 秈荷神社境内と鹿島神社。
主郭跡とみられる平場の標柱。 
 主郭跡とみられる平場のようす。
主郭跡とみられる平場周囲の切岸状態地形。 
 同上。


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