米谷城(まいや) | |
別称 : 米谷館 | |
分類 : 平山城 | |
築城者: 亀掛川氏か | |
遺構 : 曲輪跡、土塁 | |
交通 : 三陸沿岸道路登米東和ICから車で5分 | |
<沿革> 葛西家臣米谷氏の居城とされる。米谷氏は千葉氏の一族・亀掛川氏の庶流で、亀掛川氏は 下総国千田庄亀卦川村ないし葛西庄木毛河郷が本貫地といわれる。千葉頼胤の子・胤信が 清信と名乗って葛西時清の養子となり、建治二年(1276)に奥州へ下向した際、亀卦川胤氏が 同道して登米郡水越に入植したと伝わるが、清信に相当すると見られる葛西宗清が千葉氏の 出身であるとする記録はなく、他の奥州千葉氏一族同様、亀掛川氏の来歴は定かでない。 亀掛川氏から米谷氏が分かれた経緯についても明らかでない。一説には胤氏の曽孫・盛政 が鼎館(米谷古館)を築いたとされる。一般には、いずれかの時期に米谷城を築いて鼎館から 移ったとみられている。また、亀掛川氏の本流は大原新山城主となったといわれるほか、周辺 の西郡や狼河原などにも一族が広がっていった。 天正十八年(1590)の奥州仕置で葛西家や大崎家が改易されると、新領主の木村吉清・清久 父子に反発した両家旧臣らが葛西大崎一揆を起こした。米谷常秀もこれに加わり、木村父子を 佐沼城に追い詰めるなど激しい抵抗を見せたが、鎮圧を命じられた伊達政宗軍に攻められて 降伏した。しかし、常秀・常忠・常久兄弟をはじめ一揆に参加した旧臣層は桃生郡の須江山に 集められ、政宗の命により皆殺しにされた。当時から政宗自身が一揆の扇動者であったとする 見方が根強く、その場合、「須江山の惨劇」は政宗による口封じであったことになる。 戦後、木村家は改易となり、政宗がその旧領へ移された。文禄五年(1596)には、伊達家臣・ 石母田左衛門景頼が2千石で米谷城主となった。米谷城のひとつ南の大膳館は、宗頼の養子 である石母田大膳宗頼の居城と伝えられる。 元和二年(1616)、宗頼が胆沢郡水沢4千石に加増・転封となると、入れ替わりで柴田宗朝が 米谷領主となった。宗朝の養子が伊達騒動で有名な柴田外記朝意で、実父は長宗我部旧臣・ 佐竹親直、実母は長宗我部元親の三女である。外記は寛文十一年(1671)に、江戸の大老・ 酒井忠清邸における刃傷沙汰に巻き込まれて、伊達安芸や原田甲斐らとともに斬殺された。 外記の子・宗意は、天和元年(1681)に改易となった原田家の旧領船岡へ移され、米谷には 日野元信が入った後、元禄十六年((1703)に高泉兼康が2700石で入封した。高泉氏は大崎 義兼の子・高清水(高泉)直堅の後裔で、直堅の子・隆景の娘が政宗家臣・湯目景康に嫁ぎ、 その子・定康が家名を引き継いだものである。以後、高泉家が米谷所を領して明治維新まで 続いた。 <手記> 米谷城は、北上川に向かって三つ又に延びる峰の一番北側に位置しています。残る2つにも 北から大膳館、鼎館があったとされ、米谷氏の時代すでに3峰に城館が併存していた可能性も 充分にあるでしょう。なお、米谷北西の水越以南の北上川は江戸時代以降に付け替えられた もので、伊達氏移封以前には北から二股川が南流していたとみられます。 現在も城山の西側裾には高泉家の居宅があり、県道沿いの門前に標柱や説明板が建って います。見通しの良い立派なお宅なのでそのまま城山へ登れてしまいそうですが、説明板より 先は民家敷地内なので不法侵入はいただけません。 峰の背後へ回ると学校があったらしく、プールの跡や浄水槽の脇を抜けると、いささか藪漕ぎ した先に主郭跡へ辿り着くことができました。とはいえ削平地と土壇状地形が見られるほかは 取り立てて遺構らしき造作はなく、周囲の藪を相俟って残念ながら城館跡を訪れている実感は あまり湧きませんでした^^; また主郭から先はド藪でとても行けず、民家側からアプローチした としても、おそらく主郭には入れないでしょう。 高泉氏の支配下においても、『日本城郭大系』で指摘されているとおり、現在の居宅付近に 役所を設けた程度だったのだろうと拝察されます。 |
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南西から米谷城跡を望む。 | |
米谷城跡標柱。 | |
同じく説明板。 | |
背後から登る途中の切岸状地形。 | |
主郭のようす。 | |
主郭の土壇状地形。 | |
主郭の先端側のド藪。 |