守山城(もりやま) | |
別称 : 森山城 | |
分類 : 平城 | |
築城者: 六角氏 | |
遺構 : なし | |
交通 : JR東海道本線守山駅徒歩10分 | |
<沿革> 六角氏によって築かれたとされるが、その年代は『日本城郭大系』では天文年間(1532〜54)、 『守山城物語』では応永八年(1401)となっており、はっきりしない。 永禄十一年(1568)、織田信長が足利義昭を奉じて上洛の軍を興すと、六角氏はこれに抵抗した が、敗れて甲賀へ落ち延びた。六角遺臣のうち、種村城主と思われる種村道成ら千余は、六角氏 滅亡後も守山城へ立て籠もって信長に抗した。木下秀吉や池田恒興らの軍勢との戦いの末、道成 以下多くの兵が討ち死にして落城した。 その後はしばらく打ち捨てられていたとみられる。元亀元年(1570)、北西の金ヶ森城で一向一揆 が発生すると、信長は勝部城、浮気城と並んで、守山城に稲葉一鉄良通・貞通父子や斎藤利三を 奉行として派遣した。一揆勢は守山へ攻め寄せたが、稲葉勢はこれを追い返した。 金ヶ森一向一揆が鎮静する元亀三年(1572)まで、守山城は拠点の1つとして利用されたようだが、 その後については不明である。おそらく、役目を終えて廃城となったものとみられる。 <手記> 守山城は、中山道守山宿の南側、大光寺周辺にあったとされています。ちょうど守山駅を中心に 半径500mの範囲内に、守山城・勝部城・浮気城が身を寄せ合うように位置しています(上の地図に 3城とも収まっています)。一向一揆や六角氏残党との戦いに際し、信長が東山道と守山の町を重視 していたことがうかがえます。 今日では、遺構らしきものは見当たりません。大光寺をぐるりと囲う水路に、堀跡のよすがを感じる のみです。ちなみに、大光寺には故宇野宗佑内閣総理大臣のお墓があります。行って初めて知りま した。 |
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守山城址(大光寺)。 | |
おまけ:宇野宗佑元首相のお墓。 |